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| 「南仏・美術鑑賞の旅−プロヴァンスからコートダジュールへ」 小林正典 |
| 12月/07 |
| プロローグ 鎌倉のHIRO株式会社(森川宗弘社長)が発行する月刊ミニコミ新聞「せれね」は、読者の憂さを晴らす新聞、うっぷんばら紙をうたい文句に頑張っている新聞で、知る人ぞ知るユニークな存在である。その「せれね」が発刊15周年の記念イベントとして南仏美術鑑賞の旅を企画した。 2006年は画家セザンヌの没後100年に当たるため、セザンヌの故郷南仏のエクサンプロヴァンスでは、没後100年記念の大展覧会が開催されることになった。「せれね」の記念旅行では、その大展覧会鑑賞を目玉に据えた8日間の旅程が組まれた。 展覧会の会期は6月9日から9月17日までの約3ヶ月間、世界の50ヶ所以上から130点ものセザンヌ作品が集められる。一人の巨匠の作品を100点以上も一堂に集める展覧会などそう滅多にはない。それに旅程をよく見ると、多くの画家と縁の深い南仏故に、マチス、シャガール、ルノアール、ピカソなどの世界にも触れられる。 更にもう一点、参加人数は20名以下に限定、宿泊は由緒ある修道院ホテルや有名な鷲ノ巣村ホテルに3連泊という、貴重にして且つゆとりのある宿泊プランになっている。これは行かねばなるまい。 6月の予定を調整し、最後の一人だったが私も何とか申し込みに間に合った。以下は6月7日から14日までの実質8日間、その南仏・美術鑑賞旅行の記録である。 __________________ エクサンプロヴァンス到着(1日目) エールフランス257便は40分遅れて成田を出発した。果たしてパリ到着までにこの遅れは取り戻せるだろうか。今日の予定は、パリ到着後すぐ国内線に乗継ぎマルセイユまで飛び、マルセイユからはバスに乗り換えて最初の宿泊地エクサンプロヴァンスまで一気に走る。 改めて旅程表を見るとパリでの乗継ぎ時間がたった50分しかない。乗継ぎには普通1時間半は欲しいところだ。ましてパリのシャルル・ドゴール空港のような大空港の場合、ゲートを移動するだけでも相当時間がかかる。乗継ぎ便へのバゲージの移動も果たして時間内に捌けるかどうかも心配だ。この際は、パリまでの12時間を何とか11時間くらいにスピードアップしてくれるよう、機長の腕前と追風に期待するしかない。 例によって時折り席をたっては最後尾のパントリーに行き、乗務員からミニサンドやカップラーメンを貰って食べたり、ジントニックを舐めながら仲間と立ち話をしたり、体操をしたり、懸命に時間をつぶす努力をする。途中、1時間ほどぐっすり寝込んだが、あまり寝てしまうとヨーロッパの場合着いてからの夜が長く眠れなくなる。機内での昼寝はほどほどに抑えた。 夕方5時40分パリ到着。結局、40分の遅れはパリ到着までに半分しか取り戻せなかった。乗換えの時間は30分しかない。迎えに出ていた係の青年が、目の色を変えて我々をマルセイユ行きのゲートへ引っ張っていく。長いホールウエイをまるで競歩選手のような形相で彼に従ったが、長時間のフライトの後なので膝はがくがく心臓もバクバクだ。シャルル・ドゴール空港は巨大なガラス瓶の集合体のような設計で全てが透明なため、戸外の様子が実によく見える。我々が乗るマルセイユ便もいまバゲージの積込み中のようだ。果たして我々グループの荷物はこの積込み作業に間に合うだろうか。 パリから約1時間半南へ飛ぶ。夕陽に映える地中海が見えてきたなと思う間にマルセイユ空港に着陸した。コンベイヤーに乗ってスーツケースが割りに早く出始めたが、私のスーツケースはさっぱり出て来ない。やはり悪い予感は当たった。結局、我々グループ17人のうち8人分の荷物がパリで積み残しになったらしい。 エールフランスの係員の男性が出てきて、「残りの荷物は今夜10時に着く最終便でこちらに到着します。ただし、空港からホテルへの運搬車が夜間にはもうないので、荷物は明朝8時半頃にホテルに届くことになります」と平然とした態度で宣言した。申し訳ない、ごめんなさい、ご迷惑をかけます、などという言葉や態度は微塵もない。全ては成田からパリへの我々の到着が遅れたために起きたことで、「半分運んだだけでも有り難く思いなさい」とまでは思わなくても、こういう事態では極く当たり前の帰結だと思っている顔付きをしている。 我々日本人の感覚からすると、半分以上積めたのだから、「もうちょっと待って、残りの8人分の荷物も積んでくれても」と言いたいところ。まして、成田・パリ・マルセイユと同じ航空会社エールフランスでの乗継ぎなのだから、当然それ位の融通は利かせてもよい筈だ。一つのグループの荷物を、ほんのちょっと待てないで、半分積み残すとは不親切だ。まして、今夜空港に着くのに、配達は明日の朝になるとはひど過ぎるではないか、と言いたいところだ。 現に団員の中の気の強いご婦人が上述のような抗議を声高に叫んだが、そんな日本人的理屈はフランス人には到底通じなかった。 さて、いまさら騒いでも荷物が届くわけでもない。我々はおとなしく事態を納得することにし、エールフランスの非常用キットを有難くいただいてバスに乗り込んだ。非常用キットは黒いポシェットの中に簡単な歯磨きセット、髭剃りセット、パジャマ用の白いTシャツ、ヘアブラシ、それに体臭を消せということなのかデオドラント・クリームの小瓶が入っており、それにミネラル・ウオーターが1本付いていた。男性とちがって女性は辛いだろうが、今夜はこれで何とか一晩過ごさねばならない。フランス人は平均1ヶ月に1度しか風呂に入らない人もいるという驚くべき民族だ。それ故にデオドラント・クリームは常に必需品なのだろう。 暗い道路を地中海沿いに20キロほど西へ走り、エクサンプロヴァンスに到着した。 「オテル・デゾギュスタン」というこれから3泊するホテルは、市の中心ミラボー通りに極く近い便利な場所にあった。ホテルの建物は12世紀にできたアウグスチヌス派修道院の一部を生かしたもので、路地に面した小さな玄関から入ると、直ぐに狭いロビーがあり、急に重厚な石壁の館に入り込んだような気分になった。部屋数は29室。修道院時代の記録には、ローマ法王に破門されたマルティン・ルーテルが故郷への帰路ここに泊まった記録が残されているそうだ。 ロビーへ降りてくる狭くて急な階段、フロント事務所のアーチ型天井などに修道院時代の面影が残っている。ホテルの客室は近代的に化粧直しされていたが、木製の窓枠とルーバー扉は相当に古く、充分に歴史を感じさせる。 その晩は非常用キットをフルに活用して歯を磨き、エールフランスの白いだぶだぶのTシャツを頭からかぶり、半分キャンプ気分でベッドにもぐり込んだ。 ミラボー通りの朝(2日目) だぶだぶのTシャツ・パジャマの寝心地はまずまずでよく眠った。 スーツケースがまだ空港から届かないので、着替えることが出来ない。仕方なく日本を出てからすでに20数時間も着古した下着やシャツをいやいや身に着け、一階の食堂に降りて朝食をとる。やはりフランスはパンが美味い。つい食べ過ぎてしまう。 ミラボー通りへちょっと朝の散歩に出てみる。南仏の朝の陽射しは明るく空気も爽やか。ミラボー通りは17世紀に幌付き4輪馬車を走らせるために、中世の城壁を取り払って造成した道路だそうだが、プラタナスの大木の並木が実に見事な大通りだ。両側の広い歩道部分までいれると道幅は50mはあるだろう。エレガントな邸宅やカフェが軒を連ね、カラフルな日除けが朝陽を浴びて、まるで絵ハガキの絵のように浮き立っている。 よく見るとプラタナスの梢の部分がばっさりと剪定というより伐採されている。あとでフロントで聞いた話だが、ここ数年市民を悩ませた花粉症の元凶がプラタナスの花だと判り、花粉の量を減らすために思い切って枝落しをしたのだそうだ。お蔭で道路は明るくなったが、名物と云われたプラタナスのトンネルは天井がぽっかり開いてしまった。「赴きを失いました」とホテルの職員は嘆いていたが、それでもどうして充分に美しい。 「水の都」と云われるエクスの街には噴水や泉が多い。市内には100ケ所以上もあるそうだが、ミラボー通りで有名なのが、1734年に作られ「ムース(苔)」の愛称で呼ばれる苔むした岩の噴水で、それは温泉の噴水だとガイドブックに書いてあった。ぶらぶら歩いていくと道路の真ん中にその「ムース」があった。高さ3mほどのカボチャ型をした岩全体が鮮やかな緑色の苔で被われ、上から小さく噴き出した透明な温泉水が岩全体を包み込むように静かに流れている。すでに300年近くこうして流れ続けているのだろうか。朝陽を浴びて緑色に光る不思議なオブジェにしばし見とれていた。 マルセイユまでドライブ ホテルに戻ると、8時半すぎ待望のスーツケースが空港から届いた。ところが、今日の日程、マルセイユ方面へ観光に出かけるバスの出発時刻がすでに迫っている。もう着替えをしているヒマはない。団体行動に遅刻は許されない。郷に入れば郷に従え、こうなったらフランス式を真似るしかない。昨夜貰ったデオドラント・クリームを首筋にたっぷり塗りこみ平静を装ってバスに乗り込んだ。 レスタックというマルセイユに程近い鄙びた港町に立ち寄り、テラス・レストランで海を眺めながらのランチ・ストップとなった。 レスタックはセザンヌをはじめデュフィ、ブラックなど多くの画家がスケッチに訪れたり、制作のため逗留した漁村だそうだ。事実、セザンヌは25才の年に画家の登竜門であるパリのサロンに出展しようとして拒否され、失意のうちに帰郷し、しばらくここレスタックで静養しているし、その翌年も夏をここで過ごしている。 或る日、散策中のルノアールが1枚の絵を拾ったが、それがセザンヌが描いた水彩画だった、というエピソードがこの町に残っているが、それはきっとその頃のことだろう。遠くにマルセイユを望むのんびりした海辺の町レスタックには心を和ませる何かがある。 パエリア、ブイヤベース、ムール貝など地中海の漁村の味は、少々塩辛く荒削りだったが、素晴らしい海と空とそよ風と、そしてワインに助けられて、気分は100点満点のランチタイムだった。 マルセイユはフランス最古の都市、パリに次ぐフランス第2の大都会、フランス最大の貿易港など、いろんなタイトルで語られる。確かに大都市には違いない。しかし、実際に来てみると、未だに昔の港町の人恋しい雰囲気がそこここに残っていて、人間臭い漁師町の活気や懐かしさを感じさせる。果たして私の勝手な印象が的を得ているかどうか分からないが、いい意味で大都市らしくない大都市という印象だ。遠くは紀元前600年から世界に扉を開いてきたこの港町には、きっとオープンで自由で大らかな気質が今も流れているのだろう。出来ることなら2〜3日滞在してみたい。 ビザンチン・スタイルが美しいマジョール大聖堂の傍を通り、おびただしい数のヨットやクルーザーがひしめく旧港地区を少し散歩した後、標高150mの丘の上に聳えるノートルダム寺院を訪ねた。街のどこからでも見えるこの大寺院はマルセイユのシンボルと云える。大聖堂の脇には高さ46mの白い鐘楼が立ち、鐘楼の上には黄金の聖母マリア像がきらきらと光っている。それは港町の人々の安全を見守るマリアさまである。 天気は雲ひとつない快晴。大聖堂の横の展望台に昇ると、まさに360度の大パノラマにびっくり。入江のように大きく海が切れ込んでいる眼下の旧港地区から始まって、赤い屋根が延々と連なる背後の丘陵地帯まで、マルセイユの全貌が手に取るように見える。 海の方を見る。遥か沖合いまで地中海ブルーのただ一色だ。地中海ブルーはカリブ海のブルーよりやや濃く、黒汐の濃紺を映す太平洋マリアナのブルーよりは明るい。それぞれの海には夫々の青色がある。 左下の海にはあのデュマの小説「モンテ・クリスト伯」で有名なイフ城のあるイフ島が箱庭のように浮かんでいる。あの島まではここから3キロの距離だそうだ。 帰路は海岸線の美しさで有名なマルティーグという町を回遊してエクスに戻ったが、途中、時差ボケの眠気が強烈に襲ってきて爆睡してしまい、残念ながら何も記憶に残っていない。 ホテルに帰って熱いシャワーを浴び、スーツケースから新しい下着を引っ張り出して待望の着替えをする。やれやれ生き返った。東京の自宅を出てからいったい何時間汗臭き男でいたことか。 エクスの街ではミラボー通りを挟んで南側一帯をマザラン地区、北側一帯を旧市街区と呼んでいるが、南と北では街の様子が全然異なる。マザラン地区は碁盤の目状に全てが整然と区画され道路も分かりやすい。貴族の屋敷などが多いマザラン地区はつまり混ざらん地区だ。 逆に旧市街区の方は、決して不潔ではないが全てがごちゃごちゃと混じっていて下町風、盛り場風の雰囲気だ。石畳の古くて狭い路地が勝手気ままに入り組んで、西に向かっていたつもりが、いつの間にやら東に向かっている。一度や二度では覚えられないが、旅行者にとってはそういう混沌がまた魅力である。心細くなったらミラボー通りへの出方を尋ね、いったん中心軸のミラボー通りに引き返せば何とかなる。また、旧市街区には立派な裁判所や市役所があるので、市役所の時計塔や裁判所の屋根なども旅行者にとっては貴重な目印になる。 その日の夕食は旧市街区の混沌の中の一軒「バッキャナール」というフレンチ・レストランへ全員で出かけた。店の名前の通りどうやらその店には酒の神バッカスが巣くっていたらしく、皆でだいぶ飲みすぎてしまった。 ビベミュスの石切場(3日目) 今日も快晴。陽射しが朝から眩しい。空気は乾いて透明だ。これが印象派を生んだ南仏の明るい太陽ということか。なるほどと思う。 セザンヌは1839年ここエクスで生まれ、1906年67才で亡くなったが、、聖ヴィクトワール山をはじめ、故郷の自然を愛し続け人生の殆どをエクスで過ごした。今日は市内や郊外に残るセザンヌの足跡を訪ねる日である。 先ずは町の東の郊外にある「ビベミュスの石切場」に向かった。場所は聖ヴィクトワール山へ向かう大分手前、松の木に被われた丘陵地の中である。亡くなる10年ほど前、50代半ばのセザンヌはこの石切場の跡がすっかり気に入り、友人から小さな山小屋風の別荘まで借りてそこに住み制作に打ち込んだ。彼の絵でもおなじみのあの赤みがかった褐色の砂岩、その切出し跡が丘陵地の松林の中に点在している。この地方独特の柔らかい砂岩は、加工がしやすかったため市内の古い教会など由緒ある建物に建材として盛んに使われた。 林の中のところどころには、彼の絵を焼き付けた陶板が地面に埋め込むように置かれていて、眼前の実際の風景と見比べると「ああこの絵は確かにここで画いたのだな」と直ぐに分かるようになっていた。 松の梢ごしに見下ろすと、アルク川の流れに沿って緑の田園が広がり、その向うに聖ヴィクトワール山があの独特の稜線を見せている。周りの樹木は大きくなったが、100年余りが過ぎた今でも、採石場の切出し跡に残された砂岩の形や色は殆どそのままなので、目前の現実の物体と、デフォルメしたり立体を強調したあのセザンヌ独特の表現との違いが、素人目にもよく分かる。30代の頃に一時傾注した印象派的手法にもう飽き足りなくなっていた彼は、この石切場でキュービズム的手法の探求に打ち込んだのだろう。新しいキュービズムの探求には、この石切場の石たちは最適な素材だったに違いない。 「毎日、自然の中へ繰り出し、美しいモチーフと一緒にどこよりも心地よい一日を過ごしています」と、彼は亡くなる1ヶ月前に息子宛ての手紙に書いている。 ジャ・ド・ブファンのセザンヌ邸 石切場の次はかつてセザンヌ家のお屋敷だった「ジャ・ド・ブファン」の邸宅を訪ねた。現在は市が買い取って管理しているが、立派な大樹が生茂る4万坪の庭園の中央には3階建ての洋館が静かに立ち、堂々たるお屋敷風景である。 エクスの羊毛工場で働いていたセザンヌの父は、パリに出て帽子の製造技術を身につけ、エクスに帰って帽子屋を営んでいたが、やがてバンク・セザンヌ・エ・カパッソル銀行を自ら開業して成功する。セザンヌも絵の勉強を続ける傍ら、20才から21才への2年足らずだが父に説得され銀行に勤めたことがある。 1859年丁度セザンヌが20才の頃、成功した父親はこのジャ・ド・ブファンの14万平米の森林を手に入れ、やがて一家はここに家を建てた。1880年代になると父親は邸宅の大改装に着手し、その際、はじめて3階の一部にセザンヌのためのガラス張りのアトリエを設けた。セザンヌがパリのサロンで始めて賞賛されたのは1882年のことだが、反対していた父親も、その頃にはやっと息子が画家として生きることを認めたのだろう。 ところで、セザンヌ家の家風は非常に質素なものだったようだ。1888年2月、しばらく滞在するつもりで訪ねてきたルノアールは、セザンヌ家の余りのケチケチ生活にすっかり呆れて「この家にはケチが君臨している」と宣言して、そうそうに遁走したというエピソードが残っている。 邸宅の中は1階の大広間以外は見学できなかった。大広間にはセザンヌの青年期の最初の大作だという女性の絵が、直接壁に画かれていたが、後年の画風とはちがいそれがナイーブで古典的なのに驚いた。 庭園を少し散歩した。広い前庭にはブラジルの彫刻家制作の樹木の幹に似た巨大な作品が置かれている。洋館のすぐ横にある四角い池には鴨が泳ぎ、水面に落ちる木漏れ日と草花の影が万華鏡のように揺らめいている。裏庭には数本のマロニエの大樹が繁り、その間を縫う小道は奥の農園の方まで続いている。 セザンヌは結局40年近くをこの屋敷で過ごしたが、庭園のあちこちにイーゼルを運んでは沢山の作品をここで描いている。 やがて、父親の没後13年が過ぎた1899年、彼はこの邸宅を売却し市内に引越した。そしてその2年後の1901年には、大好きだったマルゲリットの丘に程近いローブに土地を購入し、初めて自分で設計したアトリエを完成した。だがその時すでに、彼の人生の残された時間はあと5年足らずに迫っていた。 ローブのアトリエ 旧市街区のレストラン街にもどり「ビストロ・ラテン」とかいう店で昼食となったが、ロースト・ポークの豚肉の硬いのには閉口した。これではビストロ・ラテンではなく、ビストロ・カチンだ。旅先で胃をやられては惨めなので、よく噛んでから呑み込んだが、今度は歯の方がやられそうになって慌てた。 旧市街区を北にぬけて、ポール・セザンヌという名前のついた通りを北に登ったところにアトリエはあった。1902年アトリエ完成当時の写真を見ると周りに何ひとつない一軒家だが、1世紀が経った今では周囲もすっかり開けて住宅なども多い。クリーム色の外壁に窓のルーバー扉のベンガラ色がよく似合う。建坪は50坪程あるだろうか、二階建の2階部分がアトリエになっていた。家のすぐ傍までオリーブやモミの木々が迫っていて、10人も立てば玄関前の庭はいっぱいになりそうだ。 アトリエは天井が高く広々した感じで、北側は肘の高さから上は全面がガラス張り。そこから柔らかな光が部屋いっぱいに降り注いでいた。光が強すぎる時に使うのか、ガラス面には黄色い薄布のカーテンが引けるように工夫されている。板張りの床にはイーゼルと椅子が置かれ、彼の静物画でおなじみの足の細いテーブル、その上には壷やりんご、使いかけのパレットや絵筆も傍らにある。今すぐにでもセザンヌがそこの椅子に戻ってきそうな気がして胸がつまった。 正面の壁の左隅には愛用の黒い帽子とコートが掛り、小さな梯子もある。壁に取り付けた棚には大小さまざまの壷やフルーツ皿、そして髑髏まで、さまざまな静物画用のオブジェが並んでいる。 丁度、雑誌社か新聞社のカメラマンらしき青年が取材にきていて、バシャリ、バシャリとアトリエ内部の写真を撮りはじめた。彼の大型カメラのシャッター音が高いので、それに合わせれば私のデジカメの音は消される。青年にタイミングを合わせながら、そっとアトリエ内の写真を数枚盗み撮りした。申し訳ないが貴重な記録である。 1902年9月1日、セザンヌが姪のポール・ニコルに出した手紙の一節には「出来上がったアトリエを妹のマリーが掃除してくれて、ここに私は少しづつ落ち着きはじめました」と記されている。 晴れた日にはアトリエの前の坂道をマルゲリットの丘まで登って聖ヴィクトワール山を画き、天気の悪い日にはこのアトリエで朝から静物画に打ち込む。「水浴する女たち」などの一連の作品も全てこのアトリエでの制作だそうだ。 自分に埋没できる理想の場所を得て、ローブでの日々はさぞ自由で幸せだっただろう。しかし、モノに憑かれたように創作にのめり込みすぎて、反面、彼は寿命を縮めてしまったのではないだろうか。それとも、自分の死期をすでに悟っていて、画き急いだのだろうか。いずれにしても、この明るいアトリエが、たった4年で主人を失ってしまったことは残念でならない。 アトリエ見学のあとは、皆でマルゲリットの丘まで登り、夕陽のなかで刻々と表情を変えていく聖ヴィクトワール山を、しばし静かに眺めた。 ホテル盗難事件 夕方、ホテルに戻って直ぐ、有志が連れ立って旧市街区へ買物に出かけることになった。目的はガイドさん推奨のエクスの銘菓「カリソン」の買出しである。カリソンとはプロヴァンス地方に古くから伝わる郷土菓子で、アーモンドの粉を砂糖で練りオレンジ風味を加えて固めた素朴な菓子で、形は日本の菱餅のように小さな菱形をしている。土地の名物なのであちこちの店で売っているが、親切なガイドさんに引率されて、品質一番と評判の老舗まで急いだ。 店番の老婦人は、日本人独特の集団買出しの猛攻撃に遭って、計算が合わなくなりヒステリーを起こしていたが、洒落た菱型の缶に入ったカリソンを皆それぞれに買込むことが出来た。試食してみると、シコシコした独特の歯ざわりが何とも云えない。フランスでナンバー・ワンの銘菓だという人もいるそうだが、それ程ではないかも。 無事にエクスの名産「カリソン」の仕入れも済んでホテルに戻ったが、部屋の様子が何かおかしい。見ると帽子と一緒にベッドの上に置いた筈のショルダーバッグが消えていた。バッグの中身はデジカメ、サングラス、ペンとメモ帳、旅行用の醤油のミニパック、のど飴などである。ベルギーのキプリング社製のショルダーまで含めて損害は総額15万円ほどである。 財布は身につけて歩いていたし、パスポートと航空券はスーツケースに移し鍵をかけてから出掛けたので無事だった。実は、一旦はショルダーも持って出ようと思ったが、カメラは重いし、もう夕方でサングラスも帽子も不要だ。この際はせいぜい身軽で行こうと思い直し、ほんの一瞬ショルダーバッグもスーツケースに移そうかと迷ったのだが、結局は帽子とショルダーは無造作にベッドの上に置いたまま外出してしまった。それが間違いだったのだ。まあ全ては私の油断である。 「外出のときお客様が部屋のカギを掛け忘れたのではないですか?」「ポリス・レポートが欲しければ自分で警察へ行って下さい」 ホテルのフロント責任者は至って冷たい。一般にヨーロッパのホテルの対応はこんなものだ。内部の取調べやポリス・レポートの取得に協力的なホテルなどあまりない。その晩遅く東京の保険会社に電話してみると、ホテルや警察の盗難証明は必ずしも必要ない。必要なのは、証書に付いている保険金請求用紙に同行の友人などに証人としてサインを貰うこと。また、カメラなど購入時の領収書や保証書があれば提示せよ、とのことであった。 (後日談――証人は同行のM氏にお願いし、帰国後、幸いカメラの保証書や領収書も引出しの奥から発見。申請はほぼ満額認められた。) ホテル従業員か、宿泊客か、外部からの闖入者か、或いはホテル従業員と外部との連携か。犯人像はいろいろ考えられるが、私の部屋はロビーから階段を上がってきて直ぐだったし、エレベーターの直ぐ前でもあった。外部からの闖入者が入りやすい位置だ。 このホテルでは、一人のメイドが二つの部屋のドアを開け放って、2部屋掛け持ちで掃除をしたり、就寝用のターンダウンをしていたが、この方法は隙を狙われ易くて危ない。私の勘では犯人は外部からの闖入者だと睨んだ。 私が買物に出る時点では、ターンダウンは未だだったが、買物から戻った時には、すでにベッドはターンダウンされていたので、余計そのような気がする。メイドがドアを開けてナイトセットをしている隙に、何者かが偲びこんだに違いない。 いずれにしても、神聖なる修道院ホテルであっても、やはり泥棒が入る時には入ることを勉強した。残念なのは、昨日マルセイユで撮ったあの大パノラマ写真と、今日のローブのアトリエの盗み撮りである。貴重な記録をカメラと共に失ってしまった。また、果たして泥棒君はあの醤油のミニパックとノド飴をどう処理してくれたのだろう。そのことも少し気になっている。 盗難事件でふさぎ込んでいても仕方がないので、M氏を誘ってミラボー通りへ気晴らしに出かけた。行き先はカフェ・ドウ・ギャルソンというエクスでも有名なカフェだ。昔はセザンヌやその友人のエミール・ゾラや多くの芸術家たちがたむろしていた店である。 プロヴァンスにはパスティスという香りの強い褐色の酒がある。これはアニスという芹科の植物のエキスから作るが、水で割るとたちまち白濁しミルクのような色に化けるのが面白い。M氏と二人でそのパスティスを舐めながら道行く人達を眺める。楽しくて飽きない。そのうち我がグループの婦人部隊が通りかかり見つかってしまった。彼女たちが近所のピザ屋で買ってきたピザを、強引にもわれらの隣に座って食べ始めたのには慌てた。案の定、店のウエイトレスはご機嫌斜めである。中年女性の怖いもの知らず、傍若無人な振舞いは国際平和を撹乱するので怖ろしい。これから教会のコンサートに行くという淑女ならぬ猛女たちを早々に追い払い、再び男だけの静かな夜はパスティスの香りと共に更けていった。 セザンヌ没後100年記念展(4日目) 「プロヴァンスに生きたセザンヌ展」というのが正式名称らしいが、世界中の名だたる美術館や個人コレクションから油絵80点、水彩画37点を集めてこの大展覧会は開催されることになった。世界中に散っている巨匠の作品を100点以上も一堂に集めることは、そう簡単なことではない。グラネ美術館、エクス地方共同体、フランス国立美術館連合、フランス政府文化省、フランス美術館広報管理省、そして米国ワシントン・ナショナル・ギャラリーの特別協力と、パンフに列挙された共同企画者の名前を見ただけでも、準備の大変さが分かる。 会場は市営の「グラネ美術館」で会期は6月9日から9月17日まで。一般入館料は10ユーロ、若者割引(13〜25才)、大家族割引、シニア割引は7ユーロ半。12才以下、身障者、生活保護者、長期失業者は全て無料である。わらわれグループ17名の予約は、いろいろ苦労の末に6月10日の午前10時の入場で確保されていた。これだけの展覧会が1500円以下なのは、政府の援助のお蔭だが、割引などにも弱者に対する思いやりがある。 グラネ美術館はミラボー通りを渡ってホテルから歩いていける距離にあった。日本だとこのような特別展の場合、入場者が多すぎて他人の肩越しに鑑賞することになるが、ここでは人数制限が厳重になされていた。割当てられた時間は1時間だが、係りが常に会場の密度を勘案しているので、時間が過ぎても追い出されることはない。玄関前は黒山の人なのに、入場してみて館内がすっきり空いているのに驚いた。これならゆったりと見て回れる。この辺りはさすがフランスである。 グラネ美術館はセザンヌが18才のとき夜間のデッサン学校に初めて通ったところで、2年後、彼はデッサン・コンクールで2位に入賞した。これで自信を得た彼はパリに勉強に出ようと試みたが、セザンヌ銀行の後継者に育てようとしていた父親が、学校長と共謀して彼のパリ行きを阻止してしまった。しかし、内気な文学青年だったセザンヌが、この時の入賞で得た自信はその後の彼の人生に大きく影響し、彼に画家になろうという意志を持続させるきっかけとなった。 実は、館長の偏見などによって、セザンヌの作品は郷里のグラネ美術館には長らく展示されなかった。1984年になってフランス政府が8点の油絵を寄託して以来、デッサン、水彩画、版画など計18点が初めて展示されることになった。そこへ今回一挙に100点近くが里帰りしたのだから、地下のセザンヌもさぞや驚いたことだろう。 私にとっても一人の巨匠の生涯作品の流れを“通しで”見る経験ははじめてで、非常に勉強になった。例えば、素人考えでセザンヌという画家は、聖ヴィクトワール山の絵ばかり、油絵44点、水彩画43点もどうして画き続けたのだろうと不思議でならなかった。そして、今まで見た何枚かの山の絵はみな同類のように感じていた。 ところが今回のように、聖ヴィクトワール山の作品を十数点ずらりと並べて見せられると、一点一点の違いが非常によく分かった。じっと見ていると、一点一点を画くごとに、技法のみならず、常に新しい何かを求めていた画家の歓喜と苦悩がこちらにも迫ってくる。同じ山を題材にして、常に違った作品が生まれること自体、孤独にして強靭な探究心の賜物だろう。それがあるからこそ、彼は同じ山を画いても常に飽きることはなかった。というより決して満足できずに画き続けたに違いない。今回、素人なりにそのことが発見できて私は非常に嬉しかった。そして、セザンヌという孤高な存在の偉大さ純粋さを改めて思った。 素晴らしい芸術を堪能した満足感に浸りながら皆で旧市街まで歩く。レストラン「ル・マキシム」の石畳のテラスでランチ。メニューはカサゴのパイ包み三色ソース添えである。明るくカラフルな盛付けで味も軽やか。日本人の好みに合っていた。 午後は次の宿泊地カーニュ・シュル・メールまでバスで移動する。セザンヌと共に過ごしたエクスともお別れである。 カーニュ・シュル・メールへ移動 バスはマルセイユを抜けて海岸沿いの道を東へひた走る。やがて軍港で有名なツーロンを通過した。ランチタイムのビールやワインが効いたらしく、周りの景色は素晴らしいのに白河夜船の人が殆ど。私も我慢できなくなって一眠り。そのうちバスは大きな弓形の半島をその先端まで回りこむように走ってサン・トロペの町に到着した。エクスから120キロのドライブだった。 バスを降りアノンシアード美術館に向かって海岸を歩く。旧港にはおびただしい数のヨットが停泊している。シニャック、デュフィー、ボナールなど印象派の画家たちがここに集まっていた頃は、まだ鄙びた漁村だったらしいが、今は賑やかなリゾート・タウンである。黄色やピンクや淡いブルーの建物が軒を連ね、青い海には白いヨットと、サン・トロペは全てが明るくカラフルだ。何だか次第に西に向かう、つまりイタリアに近づくにつれて町の色彩もイタリア風になってきた。 16世紀はじめに建てられたアノンシアード礼拝堂が、美術館に変わったのは70年前だそうだが、こじんまりと纏まった館内にはシニャック、ユトリロ、マチス、マイヨールなどの立派な作品が並んでいた。 白い窓枠、その窓の向うには群青の海、その海の青を背景に半ばシルエットとなって立つマイヨールの黒い裸婦像。もしその光景まで美術館が計算したものなら、何と心憎い演出だろう。いまでも脳裏に焼きついて離れない。 美術館の正門脇のベンチに座り、ぼんやり港の方を眺めていると、ピクニックにでも来たのだろうか、高校生らしい男女4〜5人が隣のベンチに腰掛けた。ワールドカップ・サッカーの話をしている様子なので、「フランスはどうなの?」と水を向けると、「まあ、結構やると思うよ」みたいなことを云っている。私が日本人だと分かると、「日本の中田や中村はいい選手だ」と一人が英語で云った。だが、彼等は日本が勝ち進むとは決して思っていないようだった。今度の旅行では美術鑑賞に忙しく、現地の人たちと話す機会が少ないので、これでも貴重な出逢いだった。 サン・トロペを出るといよいよプロヴァンス地方ともお別れだ。バスは紺碧海岸、コート・ダジュールに入った。目的地まではあと60キロだ。洗練された映画祭の街カンヌを通過し、ジャズ・フェスティバルで有名な岬の町ジュアン・レ・バンを過ぎ、ヨーロッパ随一のヨットハーバーを誇るアンティーブを通過し、そろそろ腰が痛くなった頃、本日の目的地カーニュ・シュル・メールに到着した。 この町はルノアールが晩年の12年間をすごした町として知られるが、ヨットハーバーのある海岸地区、商店街のある新市街地区、鷲ノ巣村のある城砦地区の3地区に分かれている。 今夜から3泊するホテル「ル・カニャール」は、オー・ド・カーニュと呼ばれる鷲ノ巣村・城砦地区にあるため、大型バスでは近づけない。そこで、新市街のバス停まで迎えに降りて来たミニバンで、数人づつピストン輸送してもらった。山肌を這うような坂道を登りきると、やっと山頂のホテルにたどり着いた。 鷲ノ巣村のホテル ホテル・ル・カニャールに着いてみると、そこはまさに中世の古城の雰囲気だった。事実、それは14世紀に出来た城の詰所を核にして造ったホテルだった。ホテルの名前は、地元の言葉で「太陽がいっぱい」「陽の当たる場所」または「陽だまり」を意味するとかで、遠い昔に見た映画の題名を思い出した。 細いアーチ型の玄関通路から入り石段を数段登ると、分厚い壁に高い天井、正面にゴツイ暖炉のある古めいた部屋に出た。広さは20畳ほどもあろうか、これが当時の衛兵詰所のリビングの部分らしい。その部屋から更に狭い階段を登ったところに、カウンターが僅か1.5mの小さなフロント事務所が有った。従業員の様子から推察するとこのホテルは家族で運営しているようだ。 部屋の鍵を受け取り、ベルガールというよりうら若いお嬢さんに案内されて、タタミ半分もないエレベーターに乗込んた。それはエレベーターというより箱リフトである。彼女と私と私のスーツケースでもう満員だ。ガタピシとドアが閉り動き出した途端に停電。真っ暗な中で若い娘さんの息づかいだけが聞こえる。艶かしくて暫くこのまま居るのも悪くないな、と思った瞬間灯りが点きリフトは動き出した。停電の感じから推してこのホテルの電力は自家発電機らしい。3階にたどり着いて箱は止まったが、今度はドアが引っかかって開かない。私も手伝って押してみたが駄目だ。その時、娘さんの右足が鋭く動き、思いっ切りドアを蹴飛ばした。駄目だ。もう一度。サッカー選手のような2発目のキックでドアは開いた。ああ、彼女に蹴飛ばされるようなことをしなくてよかった。 このホテルの全25室は個性的に全てタイプが異なるそうだが、キングサイズのベッドが入った私の部屋は、古城風のホテルの外観に比べれば内装はかなり近代的だった。ただ二重式の窓の外側の木枠と木製のルーバー扉だけはひどく風化していてもうボロボロだ。この古い窓の佇まいがホテルの外観にとっては大事なアクセントになっているに違いない。 ボーヴォワール、サンデグジュペリ、ツグハル・フジタなど、多くの芸術家に愛されてきたこのホテルがだ、窓からの眺めはさすがに見事だ。遠くにコートダジュールの海を望み、左手にはルノアールの家などのあるレ・コレットの丘。右手、谷の向うには美しい松林の尾根道が続く。 明るい太陽、美しい海と山、夏は涼しく冬暖かく天災もない。一年のうち300日はカラリと晴れて風は爽やか、アルプスが生む充分な地下水。海の幸山の幸とうまい酒。コート・ダジュールは将にそんな土地柄である。旭川と同緯度なのに冬も暖かい。 そしてそれ故に、長い歴史の中でこの土地の所有権争いは絶えることがなかった。紀元前6世紀にはギリシャ人やケルト人が入植し、紀元前1世紀になるとシーザーに征服されローマ帝国に包含された。ローマ帝国崩壊後も周辺国による侵略は絶え間なく続き、特に中世にはアラブ人、トルコ人、アフリカからのムーア人など異教徒の襲来に常に脅かされた。 そのため人々は自衛のため山頂に城砦を築き、その中に住んだ。この山頂の砦の村は、丁度それが繁みの上の鷲の巣に似ていることから「鷲ノ巣村」と呼ばれるようになった。凡そ長さ120キロのコート・ダジュール海岸の内陸部には、現在でも100近い鷲ノ巣村が点在している。ホテルの収容力には限度があるため団体宿泊は難しいのだが、我々のグループは幸い4つ星の「ル・カニャール」に3連泊の予約が取れた。 さて鷲ノ巣村第一夜の夕食は、ホテルから歩いて5分、坂道の途中にへばり付いている小さなレストランで取った。鱸(すずき)または子羊がメインだったが、中世の世界にタイムスリップした興奮も手伝い、全員ワインを飲みすぎてしまった。 夜も更けて、ご機嫌うるわしく石畳の道を帰路についたが、途中、帰りの道順に確かな人が誰も居ないことが分かり大笑い。皆でよろよろと暗い石畳の坂道を彷徨った挙句、やっと窓に灯りの点いている一軒を見つけ、その家のドアを必死に叩いた。やがて、パジャマ姿の老夫婦が迷惑そうに起きてきたが、何とホテルはその家の直ぐ隣だった。あの老夫婦の怖い顔は一生忘れないだろう。万一敵が侵入しても簡単には攻め込めないよう、鷲ノ巣村の道路は工夫されている、とガイドブックにあったが、なるほどここの道路は外来者には手ごわい。坂道と階段で組まれた迷宮に迷い込むと方向感覚を失ってしまう。 コート・ダジュール回遊(5日目) 朝から快晴微風、気温は23度。今日はカンヌ、ヴァロリス、ビオット、サンポール・ド・ヴァンスと、コート・ダジュールの主要なポイント数ヶ所を回遊する予定だ。 先ずは、昨日先を急いで通過してしまったカンヌを訪れた。市庁舎前の港には豪華ヨットがびっしり並んでいる。映画祭をはじめイベント会場として有名なパレ・デ・フェスティヴァルの横でバスを降り散歩する。パレの玄関前広場には、映画祭で訪れたスターたちの手形を刻んだタイルが埋め込まれている。残念ながら日本人スターの手形はないが、黒澤明、大島渚両監督の手形があった。 カンヌ湾は約3キロのビーチに沿って広々としたプロムナードが走り、その内側にはクロワゼット大通りというお洒落な通りが平行して走っている。海沿いの高級ホテルからは地下トンネルで直接ビーチに出られるが、マジェスティック・ホテル専用のビーチデッキには、早くもビキニの美女がちらほら出ていて。双眼鏡が欲しくなった。 最近のカンヌの評判はニースを追い抜く勢いだが、観光地というより保養地としての人気が高く、一種の不動産ブームになっているそうだ。ゆっくり街中を歩く時間はないが、海浜プロムナードを歩いただけでも、人口7万のカンヌがよく纏まり洗練された高級リゾートであることが分かった。 次はカンヌからほど近い山の手にあるヴァロリスという町を訪ねた。 周辺にはオリーブ、ミモザ、オレンジの林が広がっている。ヴァロリスは2000年の伝統を持つ陶器の町だが、14世紀にペストにやられて一度は全滅し、16世紀になって復活したのが現在の町だそうだ。 ヴァロリスを有名にしたのはピカソで、彼はこの町で初めて陶芸に手を染め、10年近くここに住んだ。我々はヴァロリス城の礼拝堂にあるピカソの大作「戦争」と「平和」を見に行ったが、この世界的に有名な傑作は、ピカソが70才の時、誕生日を祝ってくれた町民への返礼として贈ったものだという。ドーム状の礼拝堂の壁に、左は「戦争」、右は「平和」を象徴する力強く巨大な絵が、対になって画かれていた。また、城の前の広場にはピカソのブロンズ彫刻「羊を持つ少年」が立っていた。それも「村の子供たちがよじ登って遊べるように」と云って、彼が寄贈したというから微笑ましい。ピカソはこの町での生活が余程気に入っていたのだろう。目抜き通りを歩いてみたが、両側には陶器屋がずらりと並び、一見ピカソ風の焼き物がわんさと陳列されてどの店も実にカラフルだった。 ヴァロリスの次はビオットという山間の静かな町を訪ねた。ここは古くは瓶作りで知られた鷲ノ巣村だったが、今はガラス工芸と花卉栽培で有名になった。15世紀の教会が残るアルカード広場のレストランで、のんびりとランチタイムを過ごす。メニューはプロヴァンス風ひき肉野菜料理、すずきの蒸焼きとポテトサラダ、鰯のフライなど。鰯の鮮度には若干問題があった。 食後、店の主人が自分のコレクションを見せると言って地下に案内してくれたが、そのスペースの広いこと。ちょっとした美術館並だ。並んだ彫刻や絵画は全てモダンでシュールで、余り感心しなかったが、店主のゆとりあるライフスタイルには感服した。 午後は丘の上の村サンポール・ド・ヴァンスを訪ねた。ここはコート・ダジュールで最もポピュラーな鷲ノ巣村で、中世そのままの佇まいが常に観光客を惹きつけている。 洒落たカフェやレストランが点在しているが、どの店にもピカソ、マチス、レジェ、ルオー,シャガールなどの絵が1枚や2枚は必ず架かっているそうだ。もちろん全てホンモノである。それらは若かりし頃の彼等が、食事代、飲み代、部屋代などの代わりに置いていったものが多いというから愉快だ。また、その事はこの鷲ノ巣村が若い画家たちを如何に魅了してきたかの証明でもある。 村のはずれ静かな松林の中にあるマーグ美術館を訪ねた。富豪のマーグ姉妹のコレクションを管理するマーグ財団の運営で、小さいが世界的に有名な現代美術館である。緑の芝生が鮮やかな庭園には、ミロやカンジンスキーの彫刻が美しく展示され、館内にも現代絵画と彫刻の傑作群が並ぶ。特にジャコメッティーの針金のオバケのような人体像や、壁一面を埋めるシャガールの大作「LA VIE」が印象に残った。なお、この町を愛したシャガールは1950年からここに移リ住み、死後もこの町の墓地に眠っている。 我々が滞在してるカーニュ・シュル・メールの鷲ノ巣村にも、村の中心に立派な城が聳えている。グリマルディー城と呼ばれるその城は、現在もモナコ公国を統治しているグリマルディー家が1310年に外敵に備えて築城した。次第に財力をつけた同家が、17世紀になって宮殿風に改装したため、城は古城と呼ぶには少し華美な感じになった。現在、内部は美術館と博物館になっている。 その日の夕食はお城の前の広場でとることに相談がまとまり、有志7人で出かけた。 広場には2軒のレストランがあった。最初、眺めの良い方のレストランで、テラスの6人用テーブルに椅子を一つ足して7人で座れる席を工夫して貰おうとした。ところが、ウエイターは駄目だという。理由は7人掛けにすると、その形が他の客の通行の邪魔になるからの一点張りである。フランス人というのはこうゆう場合実に融通が利かない頭の固い民族である。 仕方が無いので、眺めは少し劣るがもう一軒のレストランに移動し、同じことを要求した。お城と同じくグリマルディーという名前のその店では、渋々ではあったが、テラスに何とか7人用のテーブルを用意してくれた。赤々と地中海に沈む夕日を眺めながら、極上のシャンパンで乾杯。ディナーパーティーは景気よくはじまった。 丁度通りかかったS姉妹も加わって総勢9人。シャンパンの次は赤・白ワインをじゃんじゃん抜き、アスパラのサラダ、鴨のロース、鯛のムニエルなど、店の主なメニューを全て注文。最初はいぶかしげだった従業員も次第ににこやかになり、我々から大枚のチップを期待したのか、終宴の頃にはウエイターもウエイトレスも実に丁重な態度に変わっていた。それにしても、皆よく飲みよく食べた。 ニースからヴァンスへ(6日目) 気温は24度、今日も快晴。一方、パリは34度の異常高温だとTVニュースが告げている。最近はヨーロッパでも異常気象が頻発しているらしい。今日はニースまで足を伸ばしてマチス美術館やシャガール美術館を見学。帰路内陸のヴァンスの町に立ち寄り、マチスが晩年に情熱を注いだロザリオ礼拝堂を訪ね、そのあと戻ってきてルノアール美術館見学と、盛り沢山、芸術に埋もれそうな一日だ。 沿道にはオリーブ畑が目に付く。枝を刈り込まないと実が着かないために、どの木も相当にトリミングされている。円筒形というか、円い冠のようにカットした木々が並ぶ眺めは何かユーモラスだ。三角錐の形に剪定している畑もある。 ガイドがちょっと面白いことを云った。フランスの家主はアパートを日本人には余り貸したがらないそうだ。フランスでは光熱費込みの固定家賃方式が一般的だが、日本人の場合は電気代と水道代がフランス人の倍以上になるので儲からないのだそうだ。日本人は清潔好きで、照明は明るく、風呂にも毎日のように入る。一方、フランス人は室内の照明は暗いし、1週間に1回のシャワーだけ、1年中風呂に入らない人も多いとのこと。香水やデオドラントがフランスで発達した理由は将にそこにあるのだろう。 バスはニース空港の脇を通って市街に入った。空港のフェンスの向うにずらりと並んでいる自家用機の列に先ず驚いた。数は20機ほどだったがいずれもかなり大きなジェット機だ。小さなプロペラ機などは見当たらない。胴体にアラビア文字のあるものが眼についたが、原油高騰に沸くアラブの王族や富豪が、美女や郎党を引き連れて逗留中なのだろう。駐機場を覗いただけでも、ニースというリゾートの性格とスケールが想像できる。 バスはニースの象徴プロムナード・デ・ザングレ(英国人の散歩道)に入った。天使の湾に沿って走るこの3キロ半の道路は、海岸側に広い遊歩道が付いている。ニースに住むイギリス人達の肝いりで江戸時代につくられた道路だが、その後の世界各地の海浜リゾートのモデルにもなった。もしこの道路がなかったら、ニースの今日の発展はなかったかもしれない。夕日を眺め海風に吹かれながら愛する人とそぞろ歩く。プロムナードは海浜リゾートの必須条件である。最近ニースと肩を並べるまでに発展してきたカンヌにも、立派な海岸通りと遊歩道ができている。 日本のリゾートでは最初から遊歩道の概念が明確でなかったため、熱海などのように中途半端な構造のものが多い。私の住むグアムのタモン湾でも、過去に海浜道路やプロムナードを建設するチャンスを逸してしまった。ビーチに直接面してホテルが林立してしまった今からでは、もう海浜道路の建設は不可能に近い。 少女が数人浜辺で戯れているがシーズン前の渚はまだ静かだ。ここのビーチは波による侵食を防ぐため、砂ではなく玉砂利を敷き入れているそうだが、きっと足裏マッサージには効果的だろう。 噴水が美しいマセナ広場を抜けて市内へ。市内では一度は廃止した路面電車の復活工事が盛んに行われていた。路面電車か地下鉄かで大論争の末、路面電車を復活させることに決まったそうだ。3代前の市長の英断で、主要道路の道幅は広く確保してあったため、電車が復活しても車との両立は問題ないそうだ。レトロな路面電車が走り出すと、クラシックで華麗なこの町の景観は、また一段とその趣を増すことだろう。車に頼らず人々が自由に移動できるリゾートは素晴らしい。 マチス美術館とシャガール美術館 市の郊外シミエ地区の丘の上にあるマチス美術館へ向かった。ニースでもシミエ地区には特に豪邸がそろっている。なかでもロスチャイルド家の邸宅が特にゴージャスだったが、いまはコンセルバトワールとして活用されている。 北フランス生まれのマチスは南仏の光と色彩を愛し、85才で亡くなるまでニースを離れなかった。彼のアトリエは美術館からほど近いレジナ館の中にあった。レジナ館はヴィクトリア女王が住んでいたことで有名なホテルである。マチス美術館の建物は一風変わっていた。赤い壁の3階建にはいわゆる「騙し絵」の窓が沢山画かれていて、それが装飾になっている。離れて見ると本物の窓のように見えて実に面白い。この一風変わった建物は、もともとは17世紀にイタリアのジェノア出身の豪商が邸宅として建てたものだそうだ。 ロザリオ礼拝堂のための下絵60点、あの傑作「ダンス」のデッサンが27点、彫刻57点、その他油絵や切り絵など、館内は300点近いマチスの作品で埋まっていた。館内を歩いていると、独特の明るさと力感を秘めた彼の作品群から軽快な音楽が響いてくるような気がした。 美術館の糸杉の垣根のすぐ向こうにはローマ時代の遺跡、巨大な円形闘技場が埋もれていて驚いた。かなり掘り進んだ穴の底では現在も発掘作業が進められていた。 市内へもどる途中シャガール美術館に立ち寄った。この美術館は国立で、正しくは「国立マルク・シャガール聖書の言葉美術館」という長い名前である。「私の絵は美術品ではない」と主張したシャガールは、自分の作品を額縁に収めて飾ることを嫌った。館内には旧約聖書をモチーフにした大作が並んでいるが、いずれの絵にもフレームはなく、裸のまま壁面に架けられている。写真撮影もすべて自由だ。 折から小学3年生の見学授業が行われていて、20人ほどの児童が先生の説明に熱心に聞き入っている様子が微笑ましかった。ここにある作品は聖書を主題とするものが主だが、別にキリスト者でなくても彼の絵に惹かれるのは何故だろう。「特に日本人はシャガールが好きですね」と売店の女性は笑っていたが、何故だろう。私は彼の絵をじっと見ていると、宇宙の深みが見えてくるような気がして仕方がない。 美術館の一番奥には、シャガールが休息と瞑想の場をつくりたいと云って作った小さなコンサートホールがある。ホールの壁面は天地創造と題した3枚のステンドグラスで飾られているが、その美しさには圧倒される。とても言葉では表現できないが、深いブルーを基調にした天地創造の7日間を表す3部作は、一度見たら脳裏に焼きついて離れない。 市中の明るいテラス・レストランで昼食。メニューのチョイスは鱈のオリーブソース、黒鯛の蒸し焼き、鴨のロースト、子羊のステーキ。 子羊のステーキを選んたが、少し濃い目の「1664ビール」とステーキの相性が誠に結構で満足した。それにしても、この1664というおかしなビール名の由来は何なんだろう。 さて午後は先ずヴァンスにある「ロザリオ礼拝堂」を見てからカーニュ・シュル・メールまで戻り、ルノアール美術館を見学してホテルに帰る行程だ。 ヴァンスの町は昨日の午後訪れたサンポール・ド・ヴァンスから更に内陸に入った丘陵地にあった。ここも13世紀の城門・城壁が今でも残る静かな鷲の巣村である。アトリエやギャラリーが多く芸術村といった雰囲気が漂っている。 ロザリオ礼拝堂は町を見下ろす丘の中腹に立っていた。褐色の瓦に白い外壁、内部も全体に白でまとめ上げた清楚な感じの建物である。病に伏したとき献身的な介護をしてくれたシスターに対して、マチスが返礼として設計と内部装飾を引き受けたのがこの礼拝堂だそうだ。1946年に着手した壁画とステンドグラスの制作は、5年をかけて1951年に完成した。3年後の1954年マチスは心臓麻痺で亡くなったので、事実上彼の最後の大作となった。ニースのマチス美術館にあったあの夥しい数の下絵から推しても、彼が如何にこの礼拝堂の仕事に全身全霊を打ち込んだかが分かる。 白いタイルの壁には極限まで単純化した黒く太い線で修道士と聖母子の像が画かれ、青と緑と黄の3色のみで、切り紙絵の技法を応用したシンプルな図柄のステンドグラスからは、淡く優しい光が床一面に降り注いでいた。 ルノアールの家 ルノアールの家は丘の上のオリーブ畑の中にあった。飾り気のない素朴な農家を思わせる。家を囲む庭園にも人工的な気取りは一切なく、極く自然に花々が咲き乱れ木々が生い茂っている。自由で心を和ませる素晴らしい雰囲気だ。 晩年リュウマチで苦しんだルノアールは、温暖の地を求めて1903年カーニュ・シュル・メールにやって来た。1907年には日当たりのよいここレ・コレットの丘に7ヘクタールの土地を得て、2階建の自宅兼アトリエを建てた。そして、1919年78才で亡くなるまでの12年間、お手伝いや村の娘をモデルにた女性像や風景画などを精力的に仕上げていった。彼の死後、建物は市営のルノアール美術館となり、土地は2ヘクタールに減ってしまったが、いまは全てを市が管理している。 明るいアトリエの中央には木製の車椅子と裸婦像が乗ったイーゼルが立ち、モデルがかぶった帽子や衣装なども無造作に置かれている。無数の絵筆や使いかけのパレットを見ていると、車椅子に座って絵筆を振るう老画家の姿が眼に浮かぶ。晩年の何年間かはリューマチが悪化して指が動かなくなり、手に絵筆を縛り付けて制作を続けたが、そんな苦しみの中でも、画かれる女性像は常に明るくふくよかで暖かかった。かつて友人のモネ、ロダン、マチスなどが来訪して芸術談義に耽ったリビング・ルーム。その壁にも一枚の裸婦の絵がさりげなく架かっていた。 庭に出てみると、ブーゲンビリア、ジャスミン、すみれ、薔薇、エニシダなどの花が咲き乱れ、トランペット・フラワーの大きな白い花が風に揺れて特に眼をひいた。 敷地内のオリーブ畑では市が主催する絵画教室が開かれていて、中年の男女10数名が思い思いに絵筆を動かしていた。我々が滞在しているオード・カーニュの鷲の巣村が谷の向うに見え、写生するにはここが最適な位置になる。そのため半数の人が鷲の巣村の風景に挑戦していた。見ると全員がセピア一色で濃淡を出し、墨絵のような絵を描こうと苦戦している。尋ねてみると、「一色の濃淡のみで画け」が今日与えられたテーマなのだそうだ。「日本人の貴方はどう?」と問われたが、残念ながら水墨画の技法を披露する自信は私にはなかった。 ルノアールはこの地に落着いてから初めて彫像の制作も始めたそうだが、家の前のレモン畑の中に、かなり大きなヴィーナス像が立っていた。彼の油彩の裸婦と同じように、そのヴィーナス像もまた誠にふくよかで、午後の陽射しの中で優しさに満ちていた。 最後の晩餐 今日は朝から夕方まで芸術三昧の一日。もう頭の中がハイになりパンク寸前だった。ホテルに帰って熱いシャワーを浴び、30分ほど夕寝をして起きると、やっと普通の俗人に立ち戻ったようだ。 鷲の巣村での最後の晩餐は、ホテルのメイン・ダイニングに全員集合となった。今回の旅の感想をひとりひとりが真面目に述べたり、珍談・奇談を披露したりしながら宴は賑やかに進んだ。メニューの中心はノルウエーサモンに子牛のステーキ・レモンソース。なかなかサービスも垢抜けている。宴の途中、突然ダイニングの天井がギギーと移動すると、テーブルの真上は満天の星空に変わった。 灯りはキャンドルのみとなり一段とロマンチックになったテーブルに、更に興を添えたのは、感極まったH氏が低く力づよく歌いだしたグノーのアベマリアである。室内のみならずテラス席の客まで彼の美声と正しい発音に驚き、静かに聴き入っている。 やがて歌い終わると、いっせいに拍手がきた。そして、そのあと宴が果てるまで、周囲のテーブルからは折りにふれて尊敬の微笑みが返ってきた。きっと我々のテーブルの文化レベルの高さが国際的に認められたのだろう。 その晩遅くコートダジュールの海にまた月が昇った。今夜の月は少し赤みを帯びている。窓越しに眺めていると、暗かった海面に銀色の筋が走り次第に輝きと幅を増していった。ドビッシーはきっとこんな晩にあの「月の光」を着想したにちがいない。明日はパリに発つので、荷造りをしなければならない。だが、この際そんな雑事はしばし忘れよう。私は部屋の灯りを消し、窓の外にひろがる幻想の世界にじっと眼を凝らした。 蒸し暑いパリへ (7日目) 朝7時にバゲージ・アウト。階段が狭くて複雑なため、重いスーツケースを運び出すのはひと苦労。ボーイは大変だ。朝食の後、とことこと下の駐車場まで歩いた。8時の集合に若干遅れた人もいたが、全員元気でバスに乗り込んだ。これからニース空港に向かい10時過ぎの便でパリに発つ。南フランスともお別れである。 パリには昼少し前に着いた。久しぶりのパリは6月だというのにやけに蒸し暑く空気も濁っている。爽やかな南仏から来たので余計そう感じるのだろうが、どうやらこの暑さは異常気象のようだ。サン・ラザール鉄道駅の裏手の中級ホテルにチェックインした。一泊だけで明日は帰国するので、ホテルはこれで充分だ。 早速、午後の街へ散歩に出たが、体は直ぐに汗でぐしょぐしょになった。冷房に誘われて百貨店ラ・ハイエットの食品フロアーに潜りこんだ。時代の流れだろうか、和食や中華をはじめエスニック食品の棚が随分充実している。折から宣伝販売中の中華饅頭とシュウマイを買い、ドリンク・カウンターで野菜ジュースと共に遅い昼食を済ませた。 再びお上りさん気分でオペラ座の先まで歩いてみたが、蒸し暑さに遂に降参、メトロでホテルまで逃げ帰ってきた。N夫人提供の冷えたイチゴで一息ついた後は昼寝。昔なつかしいシャンソニエ探訪や、正統派フランス料理店への誘いもあったが、昼寝をしたら却って体がだるくなり、ホテルで休養することに決めた。 パリの6月は夜9時すぎまで明るい。7時過ぎちょっと食糧買出しに外出。商店街のどの店でもテレビが点いていて、店員たちはお客よりもワールド・カップ・サッカーに気を取られている。ミニ・スーパーでシャブリ1本、生ハム、セロリ、オリーブの塩漬などを買った。 その夜はシャブリを舐めながらワールド・カップの試合を部屋のテレビで観戦。フランスとスイスは2対2で引き分けたが、フランスがゴールを決めるたびに、ホテルの壁が揺れるような歓声が響いてきてびっくり。このホテルの壁は相当に薄いらしい。ブラジル対クロアチアも際どい試合だったが、1対0でブラジルが逃げ切った。 帰国の日のパリ (8日目) 今夜遅い便でパリを発つが、午後8時のホテル出発までは自由行動だ。何をしようかと迷ったが、結局は美術館を回ることにした。南仏での美術行脚以来、わが人格はすっかり芸術づいて、サントレノ通りやモンテーニュ大通りの高級ブティック店などにはもう興味はない。と云いたいところだが、この蒸し暑さではあまり外は歩きたくない、安く涼しく時間をつぶすには美術館が一番と考えたのが本音である。 遅い朝食をすませ、NとM両夫人と連れ立って出発。出勤途中のOL嬢に道を尋ねたりしながら、モネの睡蓮で有名なオランジェリー美術館へ向かう。パリのOL達はハンカチや小物を使ったお洒落が実にうまく、一人ひとりに個性がある。 コンコルド広場に近い美術館の入口には「臨時補修作業のため本日の開館は12時半となります」というツレナイ貼紙があった。三年越しの大改装はすでに完了したことを電話で確認してやって来たのに、フランス人は自分勝手で困る。 拍子抜けした気持ちを取り直し、3人はコンコルド橋を渡ってセーヌ対岸のオルセー美術館へ向かった。1900年のパリ万博の時にできた鉄道駅の建物は、設計コンクールの結果1975年美術館に生まれかわった。蒲鉾型のガラス天井など、駅舎の名残を細部に残しながら、明るい吹抜け式の館内には19世紀後半から20世紀初頭までの作品が見事に並んでいる。 館内を一巡りした後は2階テラスのベンチに座り休憩、というより時間をつぶす。この美術館にはゆったりしたベンチが沢山あって助かる。これも古い駅舎のベンチを生かしたものらしい。向うからロダンのバルザック像がじっとこちらを睨んでいるが、私のすぐ脇に立っているマイヨールの少女像は少し恥らいながら、「ごゆっくりどうぞ」と優しく云ってくれている。 朝から歩き回ったので3人とも空腹を実感。こうなれば花より団子、芸術より食欲である。午後の2時から予約を入れてある「ルーブル美術館ツアー」参加の前に、ゆっくり腹ごしらえをしようと協議は一決した。ロワイヤル橋を渡ってチュイルリー公園に入り、ルーブルの前を抜けてピラミッド通りまでやって来た。ルーブル・ツアーのチケットを扱う事務所はこの通りにある。 街角のカフェの屋外テーブルに陣取り、世間眺めを楽しみながらのランチとなった。生ビールに野菜サンドとマッシュルーム・オムレツ。 健康メニューだ。年配のベテラン・ウエイトレスが昼どきの注文ラッシュを小気味よく捌く姿は見ていて気持ちがいい。オペラ通りの方から日本人女性が二人歩いてくると思ったら、それは同行のS姉妹だった。声をかけたら二人ともびっくりして飛び上がった。パリは狭い。ランチのお勘定は〆て丁度30ユーロ。ひとり1500円のランチは味もボリュームもトレビアンだった。 ルーブル・ツアーの切符売り場で出発を待っていると、誰か私の名前を呼ぶ人がいる。見るとかつての会社の同僚M氏のご夫妻だった。ロンドン在住の娘さんのところに暫く滞在中だが、もう孫の顔も充分見たので、ご夫妻で2〜3日パリへ遊びに出て来たとのこと。世界は狭くなった。悪いことは出来ないねと互いに笑って別れた。 あまり日本語の上手くないガイドに引率されてルーブルの中を駆け巡った。今回はじめて地下フロアーに潜ったが、ルーブルの地下に中世の深い壕が走っていることを知って驚いた。1階の古代エジプト、ギリシャ、ローマの部では、例によってミロのヴィナスの前は人でいっぱい。3階のフランス、ドイツ、オランダの絵画部門を足を棒にしながら歩き、次は2階に回りフランス絵画の大作群の方へ案内される頃には、遂に私の足も限界に近づいた。足が痛くてはもう芸術どころではないが、午前中のオルセー美術館と違いルーブルにはベンチも椅子もないので、休むこともできない。強行軍は続く。 いよいよ最後はイタリア絵画の部までやって来たが、モナリザは昔あった13号室にはなく、デノン・ウイング中央の6号室に移されていた。ガイドによると2ヶ月前にこの広い6号室に移動したそうだ。あのベストセラー小説「ダビンチ・コード」の影響を予測して広い部屋に移したのだろうか。この日もモナリザの前は世界中から来た人たちで黒山の人だかり。身動きもできない。彼女は少し呆れたように薄笑いを浮かべていた。 やがて我々の一団も、ジョコンダの複雑な微笑に見送られながら出口の方へ少しづつ歩を進めた。さようならモナリザ。――今回の美術鑑賞の旅もいま将に終わろうとしている。 (おわり) |
