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「冬のボヘミア街道へ−世界遺産都市プラハ・ブラチスラバ・ブダペスト・ウイーン」
小林正典
11月/07

プロローグ

 永年熱帯の島に住んですでに全身の毛穴が開いてしまった私は、寒いのが大の苦手である。寒風は開いた毛穴から体の芯に突きささってくるので怖ろしい。

 そこで、この冬は南半球の夏を追いかけてオーストラリアへ行こうと考えた。あのでっかい豪州大陸を飛び回るのではなく、南豪州のアデレードの町一か所だけに滞在し、のんびりとした時間を楽しむW旅行社の新企画、いわゆる滞在型の珍しいツアーを見つけた。旅行雑誌などが「暮らしてみたくなる町」をテーマに旅行のプロにアンケートすると、アデレードはいつもベストテンに入ってくる。何故なのか、この際、自分で体験してみたくなりそのツアーに申し込んだ。

 ところが、出発間際になって旅行社から「ツアー中止」の連絡が入った。理由は集客が悪く催行人数が不足とのこと。いわゆる駆け足旅行ではなく、ゆっくりとしたテンポで一つの町の生活に触れてみる新企画だったのだが、「スローツーリズム」が人気商品になるまでには、まだ少し時間が掛かりそうだ。

 豪州行きが駄目になってがっかりしているところへ、H交通社から12月中旬出発の「魅惑の東欧4カ国周遊の旅」へのお誘いがかかった。チェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリアの4カ国。それは、東欧というよりむしろ‘中欧’の国々を回り、プラハ、ブラチスラバ、ブダペスト、ウイーンと、欧州文化の塊のようなボヘミア街道の世界遺産都市を巡る8日間の旅である。

 H交通社は「少し寒いですが、クリスマス・シーズン独特の各都市の魅力とウイーンでのオペラ鑑賞は見逃せませんぞ」と上手いことをおっしゃる。少し寒いどころではない、毛穴の開いた土人にとって、それはもう十二分に“しばれる”季節に違いない。中欧の寒さは知床半島並みだと聞いている。旅程を見てもスローツーリズムどころか、H交通社らしくあれこれ欲張った内容の駆け足旅行である。しかし、年内にどうしてももう一度旅に出たい。オーストラリアからオーストリアへと洒落たわけではないが、半ばヤケクソで参加することにした。

 社会主義の時代には、東欧、中欧の国々は気軽に訪問することは出来なかった。民主化時代になって、観光資源の豊富なこの地域への旅行者は年々増え続けている。それは、ヨーロッパの他の地域の人達にとっても、東欧、中欧を訪れることは長年の夢だったからだ。

 しかし、経済発展と観光ブームのお蔭で、安かった物価も年々上がり、素朴さも失われ犯罪も増えてきているのが現実だ。この地域への添乗を過去5年間続けているベテラン女性から「行くなら今のうちよ」と云われたのも、決断のきっかけとなった。

 以下は、携帯懐炉ホカロンを両の手に握り締めつつ歩いた、冬のボヘミア街道を行く駆け足旅行の顛末記である。

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成田空港でポシェットを拾う

スカイライナーに乗ってから気がついた。うっかりいつものスリップオンの革靴を履いて出てきてしまった。旅行に出るときは、少し重いがしっかりと足を固める米国製のウオーキング・シューズを愛用しているのに、こんな安物のスリップオンで大丈夫だろうか。いよいよ駄目なら旅先で新しい靴を買うしかないが、履きなれない靴はマメができたり非常に危険だ。旅を楽しむためには、先ず足元から固めること、丈夫で履きなれた靴が肝心だということを忘れていた。

 成田空港に集合してみると、同行のメンバーは何と36名である。年の暮れだというのに世の中には暇な人が多い。しかし、以前とちがって驚いたのは、夫婦での参加が多いこと。36名中の13組がご夫婦、母娘が1組、両親と娘の3人連れ1組、私を含め単身参加者は僅かに5名しかいない。以前のヨーロッパ旅行では、中年女性の小グループが多かったが、ご夫妻での参加が多くなったのが最近の傾向だろう。家内が長時間のフライトに弱いので、今回も私は単身参加になってしまったが、自由であると同時にちょっと寂しい気もする。

 搭乗20分前、出国手続きを済ませシャトル乗り場へエスカレーターで降りる。乗車口横のソファーに座り、搭乗券、パスポート、財布、カード類、スーツケースの鍵など、貴重品がそれぞれ所定のポケットに納まっているか改めて確認する。これは搭乗前に行う私のルーティン・ワークである。

 やがてシャトルが入ってきて腰を上げたその時、細長いソファーの凹みに黒い物体を見つけた。近寄ってみる。危険物ではないらしい。それはウエスト・ポシェットだった。かなり使い込んではいるが上質の牛皮製だ。持ち主は私同様ここで身支度を整えていて、慌ててシャトルに飛び乗ったらしい。いま中身を確かめている暇はないが、何やら貴重品が詰まっていそうだ。急いで引き返し空港サービス係りの女性をつかまえ、見つけた場所を説明して処置を彼女に託した。

 貴重品にもいろいろあるが、もしあのポシェットの中にパスポートが入っていて、最悪、気づかぬまま機上の人になったら、目的地に着いてから入国はどうなるのだろう。もしスーツケースの鍵が入っていたら、旅先で荷物が開けられない。財布、現金、クレジット・カード、キャッシュカード等々、いろいろ最悪の場面も考えられるが、空港側も最善を尽くしてくれるだろうし、おそらく搭乗までには本人が気がつくだろう。余り心配するのはやめて私も搭乗ゲートへ急いだ。


チェコのプラハへ飛ぶ

 オーストリア航空52便ウイーン行きは、午後12時ほぼ定刻通り離陸した。エアバス340の機内は満席に近い。300人は乗っているだろうか。これからウイーンまでは12時間の長丁場である。

 ヨーロッパへ向かう時のように、地球を西に向かって飛ぶ場合は、”夜“を追いかけて行くので体は比較的楽だ。日本を昼便で発てば、先方に到着してからやがて夜がやって来るので寝る時間が自然に持てる。また夜便で発っても、到着した目的地は大概まだ夜中なので、これも到着後にまだ寝る時間がとれる。つまり、西へ向かって飛ぶ場合は、途中、機内で無理に眠ろうと努力する必要はない。

 その反対が地球を東に向かって飛ぶ場合で、”朝”を追いかけて飛ぶことになる。目的地に着くと直ぐに朝が来てしまうので、機内で無理してでも眠っておかないと、到着後に体がきつく時差ボケも直りにくい。日本の政治家がアメリカへ飛んで、休養をとる間もなくアメリカの要人との重要会議などに臨むと、先方のペースに巻き込まれて、兎角イエスマンになってしまうのは、この睡眠不足と時差ボケが原因なのかもしれない。

 機内は暗くなったが無理に眠ることもないと、面白くもない映画を3本も見てしまった。映画の合間にはエコノミー症候群予防のためストレッチ体操を勧める映像が何回となく流れる。だが、体操をしている乗客は誰もいない。

 それにしても、オーストリア航空の乗務員のユニフォームは見事に赤一色だ。

 頭の先から靴下・靴の先まで、すべて同じ赤一色で統一している。赤にもいろいろあるが、品性のある落ち着いた赤なので、全身赤でもイヤらしくない。

 私の隣に座っているSさんは、奥さんとお嬢さんとの3人連れだが、先ほどからずっと、これから巡る先々の観光資料をチェックしてはメモを取っている。パンフやら雑誌やら、その観光資料の厚みが5センチ以上もあるのにはびっくり。いつも出たとこ勝負の私とは正反対、実に研究熱心な人である。

 機内食を2回。ミニ・ラーメンをすすること2回。トイレを兼ねて通路を散歩すること2回。通路の最後尾へ行きスチュアーデスと雑談を交わしながら体操をすること2回。もういい加減うんざりしてきた頃ワルシャワの上空を通過し、暫くしてやっとウイーン空港に着陸した。休む間もなくウイーンからはオーストリア・アロー航空のダッシュエイトという小型プロペラ機に乗りかえ更に40分、ようやくプラハのルジニェ空港に到着。気温は平年並みの2度Cである。成田を出てから14時間、ただいま日本時間では午前2時、現地時間では夕方6時。

 成田空港で準備したユーロをチェコの通貨コルナに少しばかり兌換する。1コルナが約5円だった。チェコは2004年にEUに加盟したが、ユーロはまだチェコでは使えない。2007年からだそうだ。

 ホテルへ向かうバスの中での地元のガイドの第一声は、「皆さんスリ・置引き被害が多いのでくれぐれもご用心ください」という、きついお達しだった。さる統計によると、日本人旅行者を狙った犯罪の4割はヨーロッパで発生しており、その半分以上がスリ・置引きだそうだ。確かに餌食にならないよう注意しなければならないが、到着早々、子供を諭すような調子で喝を入れられては、旅行気分も白けてしまう。

 バスは市内に入り、モルダウ川の左岸地区、プラハ城に近いモーヴェンピック・ホテルに到着した。スイス系のチェーンホテルでまだ新しくデザインもモダンだ。このホテルの直ぐ裏手にはモーツアルト夫妻が逗留した別荘として有名な「ベルトラムカ荘」があり、いまはモーツアルト記念館になっているそうだ。明朝、朝の散歩をかねて是非覗いてみよう。

 部屋に入ると、テレビからはモーツアルトのピアノソナタが流れ、画面には「小林様、プラハへようこそ」という英語の挨拶文が映っている。優しく語りかけてくるような、あのモーツアルト独特の旋律が心を和ませてくれる。なかなか気が効いた演出だ。

 熱いシャワーを浴びて生き返り、ミニバーからワインの中ビンを取り出して飲む。160コルナ、約800円。テレビではBBCの午後8時のニュース。幸い地球上では大事件も大災害も起きていないようだ。乾燥で喉をやられないよう部屋の暖房を弱にセットし、まずは安心してベッドにもぐり込んだ。


ベルトラムカ荘

 朝食を早めにすませて朝の散歩に出る。ホテルのすぐ裏手の小高い丘を目指して石畳の坂道を登る。この道はモーツアルト通りと呼ばれているらしい。歩き出すとすぐ、坂の正面に赤い屋根に淡いピンクの壁の洋館が見えてきた。途中、右手には小公園のような広場があり、うつむいて座る少女の像がぽつんと置かれている。ほの暗い景色の中でその石像の白だけが際立っている。落葉の季節もすでに終えた林の中にその洋館はひっそりと立っていた。門柱には「ベルトラムカ荘・モーツアルト記念館」という文字が刻まれている。早朝なので門は閉まっていたが、扉越しに覗くと、冬枯れて寂しげだが風情のある庭園が見えた。

 登ってきた坂道は記念館の脇で急に細くなり、石塀にそって左手へ続いている。モーツアルトも散策したに違いないその小路を、私も少しセンチメンタルな気分になって登っていった。風に吹かれて舞い遊ぶ落葉の音と小鳥の声。僅か35年の短い生涯に600曲以上の名曲を生み出した天才モーツアルト。彼だったらきっとこの瞬間にも何かを着想しただろう。だが、時差ボケの私からは何も生まれない。頂上近くまで登って振り返ると、潅木の林の向うに茶褐色のプラハの街並みが広がっていた。

 ベルトラムカ荘は当時ドゥーシェク伯爵家の夏の別荘だった。1787年、ソプラノ歌手でもあった伯爵夫人の招きでウイーンからやってきたモーツアルトは、ここがすっかり気に入り、妻のコンスタンツェと共に長逗留することになった。この山荘で書き上げたのが有名なオペラ「ドン・ジョヴァンニ」である。その時、彼は31才、死の四年前のことである。

 「ドン・ジョヴァンニ」はプラハ市内のエステート劇場で初演が予定されていたが、モーツアルトは散策ばかりしていて作曲ははかどらず、関係者をやきもきさせた。恐妻で有名だったコンスタンツェ夫人は伯爵夫人とも計り、モーツアルトを館の一室に軟禁状態にし、自分はドアの前に座って叱咤激励、最終章までやっと完成させたそうだ。苦労した甲斐あって、モーツアルト自身が指揮台に立った初演の舞台は大成功。ドン・ジョバンニの中のアリア「わが麗しき恋人よ、さらば」をはじめ数曲は、ドゥーシェク伯爵夫人を念頭に書かれたと云われるから、彼女とモーツアルトの仲も決して普通の仲ではなかったのだろう。

 「ドン・ジョヴァンニ」の成功のあと間もなくモーツアルトは病に倒れ、病床で彼の最後の作品「レクイエム」の作曲に取り組む。そして、それも未完のまま35年の人生を終わる。彼の亡骸はウイーンに帰り、葬儀はかつてコンスタンツェと結婚式をあげたシュテファン教会で行われたが、参列者の少ない淋しい葬儀だったといわれる。参列者の中にコンスタンツェの姿はなかった。そして不思議なことに、彼の棺がどこに埋葬されたのか、確かな場所は今でも謎である。

 天才の数奇な人生を想いながら、もう少し落葉の散策を続けたかったが、市内観光に出かける時間が迫ってきて仕方なく山を降りた。


プラハ城を訪ねる

事故渋滞とかで迎えのバスがさっぱりやって来ない。世界遺産都市はバイパス工事をしたり、駐車場を作ったり、勝手にいじることは許されない。中世の都市構造と現代の車社会とは当然相容れないので、普段でも渋滞はつき物だが、まして事故でも発生すると大変なことになる。

 やっとバスが来て市内観光に出かけた。先ずモルダウ川を望む丘の上に建つプラハ城を訪ねる。ハンサムな衛兵が身じろぎもせず立っている門を抜ける。プラハ城と云ってもそれは一つの建造物ではなかった。王宮、宮殿、火薬庫、見張りの塔、修道院、兵営、職人の居住区など、3・4階建ての細長い建物が幾つも連なって大統領府のある中庭を囲み、その中庭の中心に大聖堂や教会が建つという、一大城郭都市の形状を成している。

 少し歴史を辿ってみる。9世紀にこの丘陵地に城の建設が始まり、10世紀にはボヘミア王の居城となり、大火の後12世紀になってロマネスク様式の城が完成した。14世紀、神聖ローマ皇帝カール4世の時代にチェコは大いに繁栄し、カレル橋など現在のプラハの町のインフラの骨格が築かれた。日本で室町幕府が生まれた頃である。15世紀になるとローマに対し宗教改革を叫んだヤン・フスの処刑がきっかけでフス戦争が起こる。結果、ボヘミアはハプスブルグ家の支配下に入ってしまう。そして1918年に第一次大戦が終わり同家が崩壊するまで、実に500年の間、プラハ城はハプスブルグ家の居城だった。

 ハプスブルグ帝国の崩壊後チェコスロバキアとして独立。そして、1993年1月1日、スロバキアとも別れて現在のチェコ共和国が誕生し、プラハはその首都となった。

 激動の千年を経てきた城や王宮も立派だが、広場の中央で鋭く天を指して建つ「聖ヴィート大聖堂」がすごい。13世紀にロマネスク様式で建てられた聖堂は、14世紀以後ゴチック様式への改築が始まり、完成までに600年もかけている。これはまさにゴチック建築の代表作の一つだ。

 寒風の中で大聖堂を仰ぎ見ていると、信仰心云々よりも、まず西欧人の石の文化に対する執念の凄まじさとねちっこさに圧倒されてしまう。城郭よりずっと背が高いので、大聖堂の尖塔は町のどこからでも望める。聖堂の中に入り有名なミュシャ作のステンドグラスを見たかったが、先を急ぐ駆け足観光のため残念ながらそれは果たせなかった。

 城内を東の端まで歩いて行くと、「黄金の小路」と呼ばれる一角があった。王家お抱えの錬金術師たちが住んでいたことからその名が付いたらしい。おとぎの国のような町並みが面白いというので、その小路に入ろうとすると、入口で入場料を50コルナ取られた。なるほど坂道に沿ってメルヘンチックな小店が並んでいたが、要するに土産物屋が並ぶ横丁である。商店街の入り口で入場料を取るのはちとおかしい。ただその中の一軒に、チェコの作家フランツ・カフカが仕事部屋として使っていたという青い小さな家があった。カフカは生前はチェコでも注目されずに40才で短い人生を終わった作家だった。だが、今では「フランツ・カフカ賞」という文学賞も生まれ、彼への評価も国際的にすっかり定着している。日本の村上春樹の「海辺のカフカ」をはじめ、彼に影響を受けた作家も多い筈だ。「城」や「変身」など、この青い家で彼はどの作品を書いたのだろう。家の中をちょっと覗きたかったがその時間はなかった。

 城郭を東門から抜け出して細く長い坂道を下界へ下る。坂の途中にも絵葉書や手芸品などの屋台店が続いていたが、特に買いたいものはなかった。


カレル橋から旧市街へ

 有名な「カレル橋」に出た。モルダウ川に吹く川風が頬に冷たい。カレル橋はプラハ最古の橋で、カレル4世の命で50年をかけ1402年に完成した。長さ516m幅10mのこの橋は、当時の欧州では最大級の橋梁工事だった。欄干には片側15体づつ30体の聖人像が等間隔に並んで立ち、橋全体が彫像で飾られた回廊のようにも見える。フランシスコ・ザビエルの像も30体の中にあった。車の乗り入れは禁止。橋の上は常に歩行者天国なので今日も観光客で賑わっている。いつもはストリート・ミュージシャンや大道芸人が多いそうだが、寒さのせいか今日は余り見えない。代わりに物乞いというか、募金を呼びかける人が目に付く。名前は忘れたが、触ると幸せになるという聖人の像が橋の中ほどにあり、人々が群がっていた。ふと後ろを振り返ると、欄干越しに見上げるプラハ城の眺めが一幅の絵になっていた。

 カレル橋を渡り終え「旧市街区」の広場に出た。この辺りは市内随一の盛り場である。15世紀ローマ皇教の圧政に反抗し、異端の罪で火刑にされたヤン・フスの銅像が広場の中央に立っている。広場はバロック、ゴチック、ルネッサンス、ロココなど様々な様式の建物に囲まれ、古風な馬車なども走っていて、気分は次第に中世にタイムスリップして行く。

 広場の一角、旧市庁舎の壁には毎時きっかりに仕掛けが動き出す「12使徒の天文時計」がある。天動説を基に15世紀に作られたというこのカラクリ時計は、プラハ観光の目玉的存在だ。その日も時計塔の下には観光客が押しかけていた。われわれも12時に間に合うようにここにやって来た。

 キンコンカン、死神の人形が鐘を鳴らし出すと群集はどよめき、時計の上の壁面にある二つの小さな窓が開いた。12人の使徒が次々に小窓に現れては消えていく。最後に雄鶏が現れて一声高く鳴くと小窓は再び閉まった。

 裏通りのビヤーレストランで昼食。朝から充分歩いたので腹ぺこである。モルダウ川の鱒のムニエルも悪くなかったが、生ビールが美味い。チェコはピールセン・ビールの故郷である。この国には千年前からビール醸造所があった。東京都と同じ人口、人口一千万のこの国にビール会社が70社以上あり、それぞれの個性を競っているというから驚きだ。バドワイザーの起源もチェコである。ピールセンだけでなく黒ビールがまた美味い。ランチタイムに余り飲むと、午後からがしんどくなるのを承知でついつい飲み過ぎてしまった。

 食後、時計塔の向かいにあるエルペットというボヘミアン・クリスタルの店に立ち寄る。ボヘミア地方はガラスの原料となる珪石の産地だが、16世紀にハプスブルク家のルドルフ2世が欧州各地から職人や工芸家を集めたのが、チェコのガラス工芸の始まりだそうだ。繊細なレース模様のハンドカット500PK製品、エナメル装飾のグラス類、豪華なシャンデリア、ボヘミアン・ガーネットのアクセサリー類など、いろいろと目の保養をさせてもらった。

 店内のコーヒー・コーナーでいっぷくしている時、同行のK夫人がスリにやられ、バッグから財布を抜き取られたことを知った。カレル橋から旧市庁舎までの間の出来事だそうだ。K夫人はまだショックから抜け出せず、顔面を紅潮させ腰が抜けたようにソファーにへたり込んでいる。その様子は気の毒で正視できない。まだ旅行が始まったばかりなのに文無しになってしまった。

 カレル橋の上でストリート・チルドレン救済の募金をやっていたので、バッグから財布を出し小銭を募金箱に投げ入れたそうだ。スリは大体4〜5人でグループを組んで行動しているそうだが、橋の上で財布を見せたK夫人をターゲットに追い続け、例の天文時計のショーに気をとられる瞬間を狙ったのでは、というのが現地ガイドの推測である。そうなると、橋の上で募金していた連中までグルではないかと疑いたくなる。カレル橋を経て旧市街広場へのコースには、大道芸人、ミュージシャン、幸せを呼ぶ聖人、天文時計など、観光客が一瞬気を取られるものが沢山ある。そこは将にスリにとって格好の漁場なのだろう。

 午後からは自由行動となった。気ままに町を散歩したいところだが、知らない土地をぶらつくには少し寒すぎる。そこで、レトロな路面電車に乗って市内を巡るというツアーに参加した。

 床面も木製の路面電車はガタピシと音までレトロだった。1915年、大正4年製造の車両を観光ツアー用に修復したのだそうだ。運転手は樽のように太っていたが、ダークグレーのジャケットに赤いネクタイ、黒い筒形の帽子をかぶってスタイルは決まっている。木製の椅子はかなり腰に響くが、車内は暖かいので助かった。車輪の響きを子守唄にうとうとしたが、電車はユダヤ人地区を通って川沿いをマリオネット劇場の方へ下りてきた。本場の人形劇も是非見てみたいが、残念ながら我々にはそんな時間はない。1989年の民主革命の舞台となったヴァーツラフ広場の脇を抜け、ミュシャ美術館から市民会館の前に出た。「プラハの春音楽祭」の会場として有名なスメタナ・ホールは、あの市民会館の中にあるそうだ。1911年に建てられた市民会館は華麗なアールヌーボー様式だが、正面入口の上、ファサードを飾る半円形のモザイク画が妙に印象に残った。ガイドブックで調べてみると、それは「プラハへの敬意」と題したミュシャの作品だった。


エステート劇場見学

 レトロ電車とお別れして、ツアーの最後はチェコの至宝と云われる「エステート劇場」の見学に向かった。プラハ市民はここを「モーツアルト劇場」の愛称で呼び親しんでいる。ハリウッド映画「アマデウス」の撮影にもこの劇場が使われた。収容人員は忘れたが規模はそれほど大きくはない。だが、チェコを代表する劇場の内部はさすがにシックで華麗だった。楽屋や奈落の各種装置なども見せてもらったが、客席の華麗さとは逆に、舞台裏部分は全て頑丈で地味に出来ていた。舞台上では次の公演の大道具の組立てが慌しく行われていた。

 1787年10月29日、モーツアルトが自ら指揮棒を振った「ドン・ジョバンニ」の初演は大好評を博し、エステート劇場は一躍有名になった。2006年は丁度彼の生誕250年に当たる。ここでは連日「ドン・ジョバンニ」の上演が予定されており、すでに世界中から予約が殺到していると聞いた。独立後、初めてチェコの国歌が歌われたのもこの劇場だそうだ。

 案内役の老紳士から面白い話を聞いた。昔は舞台裏のドアが直接外部の道路と接していた。搬入のためのドアだったのだが、或る夜、オペラの公演中に酔っ払いがそのドアから闖入し、舞台にまで上がってきてしまった。酔っ払いは聴衆に大声で挨拶してご機嫌だったが、驚いたのは舞台上の役者たち。一人が機転を利かせ、「今宵は早めに引き揚げようぞ」とか何とか適当なセリフを言って酔っ払いを袖に引き込み、オペラは無事に進行することができた。その夜の聴衆はこの珍事には気づかずオペラの演出の一部と思っていたというから、酔っ払いの演技に乾杯である。

 劇場から出ると外は氷雨、ますます冷え込んできた。夕食にはまだ早いので、カフェで休憩することにし、例の天文時計の真向かいにあるグランド・カフェ・プラハへ駆け込んだ。店内はやけに暖房が効いていて暑く息苦しい。コーヒーを飲むうちに、どっと疲れが出てきた。出たり入ったり、冷やしたり暖めたりを朝から繰りかえしたのだから無理もない。今夜のビヤー・レストランでの夕食はキャンセルし、私は店でタクシーを呼んでもらってホテルへ帰ることにした。初日からの無理は禁物である。

 タクシーはカレル橋の辺りで左折し川沿いの道を南へ向かっている。夕方のラッシュなのだろう道路はかなりの渋滞だ。運転手が指差す方を見ると、対岸の丘の上、プラハ城全域がライトアップされていてびっくり。夜空に浮き立つ姿は昼間とは全然違い実にファンタジックだ。聖ヴェート大聖堂の尖塔も金色に輝いている。こんな夜景に巡り会えるなら、渋滞にはむしろ感謝である。カレル橋から上流へ向かって三本目のパラツキー橋という橋の上に出ると、少し距離はあるが再びライトアップ・シーンが見えてきた。運転手は好意で徐行してくれている。パラツキー橋を渡り終えると、橋の名前に義理だてするかのように小雪がぱらついてきた。今夜はかなり積もるのだろうか。


国際列車でスロバキアへ

 モーニング・コールで5時半に起こされる。外はまだ暗いが昨夜の雪はどうやら小雨に変わったらしい。6時にドアの外へバゲージ・アウトし急いで朝食。6時45分にはもうバスでプラハ中央駅へ向かっていた。これから国際列車で約400キロ、スロバキアの首都ブラチスラバまで行き、その後はまたバスに乗り換えてハンガリーのブダペストまで240キロを走る。建築、音楽、美術、工芸そしてビール。何をとっても歴史と伝統は厚く重く中身の濃いプラハ。この千年の古都の匂いをたった一日嗅いだだけで、次へ移動するとは何と勿体ない旅だろう。後髪を引かれる思いとはこの事だ。

 国際列車の一等車両は6人づつのコンパートメントに分かれていた。皆で力を合わせ、必死になって全員のバゲージを車両の通路に引っぱり上げたところで、丁度発車時刻となった。ポーターなど何処にも見えない。

 EC279号は7時38分定刻どおりに発車。車両は決して新しくはないががっしりしている。私のコンパートメントは両親と大学生のお嬢さんのSさん家族3人と、母親とOLの娘さんのBさん親子だ。若い女性が二人も居るので、窓の外の暗い冬景色とは対照的に室内は華やいだ雰囲気になった。

 どんよりとした雪空の下、ボヘミア地方の茫漠とした田園風景が続く。吉行和子の「独り芝居」でも話題になったが、大地主ハインリッヒ・クーデンホフ・カレルギー伯爵の領地はこの辺りだろうか。伯爵夫人の光子は、第一次大戦当時、前線のオーストリア軍への食料補給や貧民救済のため馬鈴薯畑の大開拓を進めた。ハインリッヒと光子が住んだプラハ郊外ロンスベルクの古城は、最近ようやく修復の手が入ったそうだが、近いうちに立派な観光スポットになるだろう。東洋から来た平民の娘と蔑まれた光子は、やがて全国民の尊敬を集める貴婦人にまで成長していく。彼女の若い頃の苦闘の日々が刻まれたのがロンスベルクの古城である。今回、時間が許せば是非訪れたいところだった。

 光子の次男リヒアルトが生涯をかけて主張した「パン・ヨーロッパ思想」は、現在のEUヨーロッパ連合構想の思想的基礎を築いた。それ故、そういう子息を育てあげた母親の光子も、今では「ヨーロッパ統合の母」と讃えられている。日本人はこの事実をもっと知るべきだし、誇りに思うべきだろう。

 スロバキア国境に近づくにつれ、ずっと続いていた平坦な農地に起伏が生まれ、列車は山間部に入った。あまり高くはないが雪山が車窓まで迫ってくる。水を一杯に湛えた沼地が山裾に点々と広がっている。すでに雪の積もったゲレンデも見える。

 通路に並べたスーツケースが、キャスターの滑りが良いため、列車の廊下をゴロゴロと勝手に走りまわるので大騒ぎになった。キャスターの付いていない面を下にして床に置き直す、つまり縦のものを横にするだけで問題は簡単に解決するのに、それに気付くまでに大分時間がかかった。皆で大笑いである。途中、列車は4つの駅に停車したが、列車の長さよりホームの方が短い駅があった。ホームがないので1.5mくらい下の地面に直接降りるしかない。乗客は先ず大きな荷物を放り投げ、続いて自分も急いで飛び降りた。老人や女子供だったらどうするのだろう。日本では考えられない荒業である。

 退屈しのぎに食堂車や普通車両の方まで足を伸ばしたりしたが、11時頃スロバキアの国境をやっと越えた。係員がきてパスポートにスタンプを押すだけで越境手続きは完了。正午すこし前スロバキア共和国の首都ブラチスラバに到着。人口520万の小国の首都の駅はこじんまりとして静かだ。駅を出ると外は小雨が降っていた。


ブラチスラバを散策

 ご当地名産の白ワインに鱒料理と行きたいところだが、ジッチーというレストランでローストポークの昼食となった。食後、ブラチスラバの旧市街を散策する。中世の面影を色濃く残す町並みだが、修復が行きとどき整然としている。観光客誘致に相当力を注いでいることが分かる。

 オスマン帝国に攻め込まれた14世紀、ハンガリー王国は首都を一時ここブラチスラバに移したことがある。85mの尖塔が目を惹く聖マルチン大聖堂では、かつてハンガリー王の戴冠式が行われたという。大司教宮殿や貴族の館などもしっかり保存されている。ゴチック・バロック様式の2つの塔が美しい旧市庁舎は現在市立博物館になっている。日本大使館のある新市庁舎広場では、折からクリスマス・マートが開かれていた。旦那たちはホットワインを飲みながら広場中央のテント小屋で談笑し、母親と子供たちは屋台で揚げパンを食べたり小さな玩具屋を冷やかしている。クリスマス市場には平和でのんびりとした時間が流れていた。

 ふと見ると街角のマンホールの穴から工事人が顔を出している。近づいてみるとそれは金属でできた彫刻だった。通行する女性のスカートを下から覗く形に作られた彫刻で、この街の名物らしい。その上目づかいの目付きが実に愉快だった。カールトン・ホテルではホテルの四角い建物自体をギフトの箱に見立て、建物全体を巨大な赤いリボンで結んでいた。その奇抜なアイデアには感心した。マンホールのスカート覗きの彫刻もそうだが、スロバキアの人々にはなかなか粋な遊び心があるらしい。

 街から出て、ドナウ河畔の丘の上に立つブラチスラバ城を訪ねた。この城は屋上の四隅から塔が四本突き出ているので、遠くから見ると丁度机をひっくり返した形に見える。俗称「逆さ机の城」と呼ばれているらしい。城の歴史は古くローマ時代に遡るが、いまは展望博物館になっている。古城に隣接して黄色いお洒落な別棟が建っていたが、それは18世紀半ばハプスブルグ家のマリア・テレジアが自分の好みで建てた宮殿だった。壁の色はいわゆるマリア・テレジアのイエローである。彼女は余程この色が好きだったのだろう。

 雨が止み雲の切れ間から陽がさしてきた。城壁から見下ろすドナウ河は、大きく蛇のようにうねり銀色に輝いている。川の向こうには積木を並べたように無数のアパート群が並んでいる。共産時代の集合住宅だそうだ。建物には色彩もなくデザインもない。灰色の箱がただ単純に並んでいる様は気味が悪い。それは共産時代の非人間性を象徴するかのような異様な光景だった。


バスでブダペストへ

 ブラチスラバからハンガリーのブダペストまではバスで移動した。約240キロのドライブである。少し英語の話せる運転手と雑談をしたが「スロバキアの社会はいま猛スピードで変わりつつある」と彼は云った。スロバキアの経済も現在順調に発展していて、大手の自動車工場や電気メーカーの工場なども増え失業率は3%を切った。運転手の息子さんも自動車工場に就職できたそうだ。しかし、諸物価はかなり上昇しているらしい。かつての社会主義社会は新しい時代に向かって急転回しているようだ。

 2時間ほど走ってハンガリー国境の検問所に到着。まだ午後の3時45分だが、周囲はすでに夕暮れ時のように薄暗い。ハンガリーは山のない平坦な国だが、遥か遠く地平線の上だけが夕焼けで真っ赤に染まっている。両替窓口でハンガリーの通貨フォリントに両替し当座の小銭をつくった。ハンガリーのフォリントもチェコのコルナも2年後にはユーロに変わりこの世から消える運命にある。運転手の話だと、共産時代この検問所では数時間待たされるのが当り前だったそうだ。我々の国境通過は添乗員がパスポートを集めて事務所に行き、スタンプを貰って3分間で終了した。

 ブダペストが近づくにつれ大型トラックが増えて渋滞が始まった。郊外では米国型の大型スーパーや新しい工場の進出が急激に進んでいる様子だ。韓国のサムソンのネオン看板がやけに目立つ。世界遺産都市では市内に高速道路は勿論、バイパスや地下駐車場、大型ビルなどの建設は許されない。従って新しいものは全て郊外に押し出されてくる。ブダペストもいま観光ブームだが、新しいホテルは市内には建てられず、ホテル不足は深刻のようだ。狭い石畳の路地と近年の車社会とは相容れない。これは世界遺産都市の泣き所だろう。

 渋滞がひどくホテルに着くのは遅くなりそうなので、先に夕食のレストランへ直行することになった。クサルダとかいうハンガリーの田舎家風のレストランだったが、老人のカルテットが「荒城の月」や「上を向いて歩こう」の下手糞な演奏で歓迎してくれた。パプリカの辛味が効いたビーフと野菜のシチュー「グヤーシュ」に、世界三大貴腐ワインの一つと云われる「トカイ・アスー」で、冷えて固まった体はやっと人間らしく蘇った。フランス、ドイツ、イタリアのグループも次々に来店して、下手糞バンドの曲目は益々多彩になってきた。食後、バンドリーダーがCDを売りにテーブルへ回ってきたが、それだけは勘弁してもらった。

 渋滞も収まり、王宮の丘の裏手の辺り、鉄道南駅近くのホテル・メルキュール・ブダにチェックイン。長い移動の一日は終わった。トカイ・ワインの酔いが醒めないうちに早めに休むとしよう。


ブダペスト市内観光

 夜中に風雨が激しくなり何度か目を覚ました。朝カーテンを開けると空は抜けるように晴れていた。ホテル・メルキュールの朝食ビュフェはパン、チーズ、ヨーグルト、ジュース、フルーツ、全てが種類豊富で贅沢なセッティングだ。日本人客のビュフェ・マナーは未だに欧州で評判が良くないが、同行の人たちは旅馴れた人ばかりで、スマートで無駄を出さない。見ていると、欧州人の中にも食べ残しが多くマナーの悪い人がいる。

 朝食の後すぐ市内観光に出る。「王宮の丘」へ通じる階段の下でバスを降り、城壁に向かって急な石段を登る。ドナウの流れとペスト地区の風景が眼下にみるみる展がりだした。

 ハンガリーは欧州で唯一つマジャールという東洋系民族の国だが、その歴史の道程は誠に複雑だ。アールパードという首長が率いるマジャールの7部族が東方からやって来て、西暦896年カルパチア盆地を占拠し定住した。これが云わばハンガリーの第一次の建国である。

 そして、王宮の丘にいま騎馬像となって立っているイシュトヴァーン王は、洗礼の結果改名してイシュトヴァーンと名乗ったが、実は首長アールパードの曾々孫に当たる男だった。彼が正式にキリスト教徒となり、ローマ教皇から認められて王冠を授かったのが丁度西暦千年。それ故、西暦千年を第二の建国の年とすることになり、イシュトヴァーンは初代国王と呼ばれるようになった。

 この西暦千年の建国から21世紀の今日までの千年の歴史も苦難の連続だった。13世紀のモンゴルの襲来。15世紀のオスマントルコの侵攻。16世紀には再びトルコ軍に国を分断され、17世紀末にはハプスブルグ帝国の支配下に置かれる。1867年、日本が明治時代に入る頃にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立。この時代にブダとペストとオーブダの3つの町が統合されてブダペストとなった。1918年第一次大戦が終結しハプスブルグ家は崩壊。やっとハンガリーは独立することになる。

 しかし、ここからがまた大変だった。第二次大戦ではドイツに味方したため、ブダペストはソ連軍とドイツ軍の戦場と化して荒廃する。戦後はソ連の監視下で社会主義を強いられ、1989年10月のソ連崩壊で、やっとハンガリー共和国としての自立を果たした。そして2002年にはEUに加盟し、現在に至っている。

 ハンサムな中年、通称ジョージと呼ばれる今日のガイドは非常に優秀で、敬語もしっかりした立派な日本語を話し、上記のような歴史にも詳しかった。本人に聞いてみると、或る日本人の奥様のところに通って、敬語の使い方からはじめて、正しい日本語の会話を2年間徹底的に勉強したとのこと。ガイドが優秀だと旅の楽しさは倍増するから怖い。

 ドームを中心にして左右シンメトリックに構える王宮は、堂々としているが、ルネサンス様式特有の繊細で引き締まった美しさだ。長い歴史の中でこの王宮も戦禍と再建を繰り返し、第二次大戦の被害の修復も1950年に漸く完了した。王宮はいま主に博物館やギャラリーとして利用されている。

 「王宮の丘」地区で一番目を引くのはマーチャーシュ教会の聳え立つ尖塔だ。ネオ・ゴチック様式の塔はまるで繊細なレースのベールを纏ったように美しい。この教会も16世紀にはトルコ軍に占領されモスクに改造された。今でも屋根の一部には当時のモスクのモザイク・タイルがそのまま使われている。1867年オーストリア・ハンガリー二重帝国が生まれた時、フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベート皇妃(愛称シシィ)の戴冠式が行われたのがこの教会である。ピアノの天才リストが「ハンガリー戴冠ミサ曲」を作曲し、戴冠式では自ら指揮棒を振った。

 ドナウ川と対岸ペストの街並みを一望できる展望ポイント「漁夫の砦」に回る。第一次の建国から数えて千年に当たる1896年、記念事業としてこの砦は着工し1902年に完成した。遠い昔のマジャール族の遊牧テントに似せて、砦はトンガリ帽子型の7本の塔屋から成り、その姿はかなりメルヘンチックだ。それぞれの塔には896年の建国に参画したマジャール7部族の名前が付いている。魚市場があった場所に建設したので、「漁夫の砦」と呼ばれるようになったとか。

 昨夜降った雨が氷結して砦の石段に張りつき足元が危ない。登るのに苦労したが、砦からの眺望はまさに絶景だった。快晴無風という幸運に恵まれ、川も橋も中州の島も千年の街並みも、全てが朝の光の中で輝いている。誰かが「ああ、もうこの景色だけで今度の旅行に来た価値の半分はOKだ」と叫んだ。半分というところが憎いが、私もまったく同感だった。半分は元を取った気分だ。

 滔々と流れるドナウは全長2860キロ、ヨーロッパの8つの国を流れ下って黒海に注ぐ。ブダペストはその大河の流域都市の中で一番美しい都市と云われ、「ドナウの真珠」「ドナウの薔薇」「ダニューブの女王」などと呼ばれている。この素晴らしい景観を見せられては、それもこれも全て納得である。

 ガイドのジョージに拠ると、ブダペストの人口は最近200万を超え、人口190万弱のウイーンを抜いたそうだ。何事につけウイーンに対抗意識を燃やすブタペスト市民は、いまその事で得意になっているそうだ。永い間オーストリアのハプスブルグ家に抑え付けられてきた過去の歴史を思うと、その気持ちもよくわかる。

 砦とマチャーシュ教会に挟まれてヒルトンホテルが建っていた。歴史的な建造物ばかりの城内で、ヒルトンだけが極めて異質だ。ガイドに尋ねると、やはり建設当時から大論争を巻き起こしたらしい。表側は世論に押されてデザインを修正したが裏側はいまもそのまま。妙にモダンな建物が周囲の雰囲気を台無しにしている。ホテルからの眺望は抜群、サービスも一流だそうだが、建築デザインだけは何とも場違いで残念だ。

 砦の裏手の小さなお土産店に立ち寄る。ハンガリーはマジャール人の誇りと伝統が息づく手工芸王国である。華麗で上品な刺繍のブラウス、ハンカチ類、個性的な表情の人形たち、ヘレンドやジョルナイに代表される伝統陶磁器、パプリカ、ワイン、フォアグラなど。小さな店だが実にスマートに何でも揃っている。

 狭い店内で日本民族独特の凄まじい買い物合戦が開始されたが、私も明治時代に焼かれたヘレンドのアンティーク・コーヒーカップが気に入り、2個思い切って買ってしまった。今回の旅行で高価な買物はもうこれが最初で最後だろう。さもないと、先立つものが先立たなくなる。奥様方の買物熱につい釣られて、こちらもトリュフ、ホアグラ、パプリカの袋詰めなどを適当に買込んだところで、買物は打ち止めとした。


ゲッレールト温泉

 氷や霜がようやく融けはじめた王宮の丘の階段を下界へ下る。再びバスに乗り、次はブダペストで最も有名な「ゲッレールト温泉」へ向かう。「くさり橋」の前を通過した。この橋はドナウに架かる橋の中で最も美しいといわれる橋だ。橋の長さは375m幅16m、橋の入口に2頭のライオン像が座っている。「左に見える橋は三越橋と申します」と、ガイドのジョージがジョークで笑わせた。

 ハンガリーは世界でも5番目に温泉湧出量の多い国だ。ブダペスト市内だけでも政府登録の温泉浴場が32ヵ所もあり、湧出口は128本に及ぶ。まさにヨーロッパ屈指の温泉リゾート都市と云ってよい。

 到着したゲッレールト温泉はくさり橋より一つ下流のエルジェーべト橋のたもとに堂々と建っていた。19世紀末のアール・ヌーヴォー様式を代表する建築だそうだが、曲線的で大胆な造りのファッサードに圧倒される。向うに立派なホテル棟も見えるが、ホテルとスパ施設がうまく合体している。温泉の玄関を入ると、天井の高いロビーが奥まで続き、床も柱もすべて大理石、まるでどこかの宮殿に踏み込んだ感じだ。

 ガイドのジョージが説明した。「これから約50分間の入浴を楽しみます。男女とも必ず水着を着用してください。温泉は27度,33度,36度,38度と温度別に四つの浴槽に分かれています。温度の低い方から順に入浴しますが、最初の二つ、27度と33度の浴槽は男女混浴となります。その後の36度と38度の二つは混浴は許されません。男女は別々に分かれてそれぞれの専用入口から入り、36度と38度の入浴を済ませます。マッサージを希望する方にはマッサージ室もあります」

 ロッカールームで一枚一枚冬の厚着を剥ぎ取り水着に着がえる。室温は20度くらいだろうが水着一枚になると寒い。早速浴槽に向かう。27度の浴槽はまるでプールの上にギリシャ神殿を乗せたような重厚な造りだった。深さは胸まで長さは40m近くあるだろう。吹き抜けの採光天井は開閉式になっている。水泳選手のように泳いでいる客が数人。私も数分泳いでみたが体は一向に温かくならない。風邪を引いてはたまらないので、すぐ隣の33度の浴槽に移動した。ここは天井が低く穴倉風で薄暗い。30人も入れば満杯になりそうだが、土地の人、ホテルの滞在客、外来の観光客と、利用客はいろいろ混じっているようだ。

 プールの方から急に黄色い声が響いてきた。顔をあげると、色とりどりの水着の女性が14〜5名プールサイドをこちらへ行進してくる。日本語を話している。なんと彼女等は同行ツアーの女性たちだった。先程まで冬の着膨れファションに身を包み、太っているのか痩せているのか判然としなかった彼女たち。その彼女たちがいま、誤魔化しのない形体、即ち水着一枚で目の前に現れた。平均年齢は多少高めだが大感激である。周りの西洋人に比べて、日本女性たちは充分原型を保っている。27度と33度の浴槽のまわりはお蔭でお花畑のように明るくなった。

 10分程で彼女たちが女性棟の方へ移って行くと急に静かになった。私も男性棟に移動しようと立ち上がったが、寒くて身震いする。ぬるい風呂から出るに出られない状態だ。男性棟まではプールサイドを歩いてかなりの距離がある。踏ん切りがつかず再び首まで浸かった。ふと横を見るとフランス語を話す中年カップルが、絡みあったりキスしたり、次第にいかがわしいポーズになってきた。いいトシして浴場で欲情しないでほしい。別の意味でノボセてしまった私は33度槽を飛び出し、震えながら男子専用スパの方へ遁走した。

 マッサージやシャワーの部屋をぬけると、奥の壁にアーチ型の穴が開いていた。それを潜ると36度と38度の浴場があった。浴槽はどちらも直径12mくらいの円形に近い。内装全体はトルコ風の青いタイルでまとめているが、柱のエンジェルの彫像や、壁の抽象模様がアール・ヌーヴォーの不思議なムードを醸し出す。よく見ると水着だけでなく、日本の越中褌を短くしたような白布を腰につけた人が目に付く。何やら頼りない代物だが、レンタル水着なのだろう。36度に浸かるとやっと少し温泉気分になってきた。

 36度槽の中で浮遊していると、痩せた青年がニヤリと寄ってきて何か云った。全然わからない。ハンガリーのマジャール語らしい。彼はこちらの英語にも反応しないので、お互いスマイルの交歓だけで終わってしまった。

 ガイドと約束した時間が迫っている。体の芯まで温めようと最終の38度槽に移動した。私の入浴は烏の行水型で常に42度以上。従って38度では物足りないが、段階を追って来たためか額に汗が吹き出してきた。浴槽の段差に腰を置いてじっと目を閉じる。そのとき何かが足に触れた。目を開けると先程の青年が横で笑っている。その瞬間ようやく私は勘付いた。青年は同性を愛する趣味のお方だったのだ。

 昼食に向かうバスの中でジョージに確認すると、やはりこの地のスパにはその種の男性が出没するとのこと。スマイルの交歓で勘違いされたらしい。水着の美女、熱愛のカップル、そして貞操の危機にも遭遇したが、4段階のスパはなかなか貴重な体験だった。特筆すべき事は、戸外は冷え込んでいるのに、その日一日私の体はポカポカと芯から温かく、湯冷めの心配は一切なかったことである。


自由行動の午後

 エルジェーベト橋のたもとの天壇飯店という中華レストランで昼食となった。湯上りの五体にビールがしみ込んでいく。料理はなかなかの味だったが、ワンタン・スープだけは塩気がゼロ。各自が不思議そうな顔をしながら、塩や醤油で適当に味付けしている光景が何ともおかしかった。忙しい調理場が味付けを忘れたらしい。

 昼食後は自由行動となった。ドナウの東岸を遊歩道に沿って独り歩く。ドナウ越しに見る王宮の丘の風景も捨て難いが、川風のなんと頬に冷たいこと。欧米ではマスクをすると病人と思われ嫌われるので、極力マスクはしたくないが、鼻水防止のためにマスクをして歩くことにした。幸い五体の方は温泉の効果だろう少しも寒くない。

 マリオット・ホテルのところで右折してヴルシュマルティ広場に向かう。広場の下には地下鉄1号線のターミナルがあるので、そこから地下鉄に乗ってみよう。広場では折からクリスマスの市が開かれていた。この寒いのに人で溢れている。何やら面白そうな雰囲気だ。長いスリコギのような棒に、伸したパン生地風のものを巻きつけ炭火でこんがり焼いている。日本のきりたんぽの10倍くらいの大きさだ。一本が約400円だが、独りで試食するには余りにも大き過ぎる。焼鳥や焼ポテトの屋台もダイナミックに煙をあげていた。そのうち二人づつのペアーが何処からともなく集まり、輪をえがいて踊りはじめた。ハンガリアン・ダンスだろう。老いも若きも軽やかなステップで前進後退を繰り返しながら踊る。中には民族衣装の人も混じっていて踊りは延々と続いた。

 ヴルシュマルティ広場を出て、次はブダペストで一番大きな教会、聖イシュトヴァーン大聖堂へ行くことにする。地下鉄に乗るほどの距離でもないので大通りを突っ切って歩いた。午後3時をすぎて気温は一段と下がってきた。大聖堂は1896年に建国千年を記念して着工し、50年をかけて完成した。高さ80mの大鐘楼は街のどこからでも見える。初代国王イシュトヴァーンの「右手のミイラ」が有名だが、先を急ぐので正面からネオ・ルネッサンス様式の大聖堂を仰ぎ見るだけに止めた。

 ひと休みしたくなり、2004年にオープンしたフォーシーズン・ホテル・グレシャム・パレスを訪ねる。ドナウの東岸、「くさり橋」の真正面、対岸にある王宮と向かい合って建つこのホテルは、市内でも最高のロケーションだ。渋い紺色の屋根に淡いピンクの壁。古い宮殿をホテルに改装したというその優雅な姿には文句のつけようがない。シックなロビーの一隅では、上品に飾りつけたクリスマス・ツリーが静かに点滅していた。わずか1時間だったが、熱い紅茶とダイエットケーキで過ごした休息は、自分を取り戻す貴重な旅のひとときとなった。

 帰りたくなかったが、6時半から再び団体行動の夕食が待っている。マントが似合うハンサムなベルボーイにタクシーを呼んでもらいメルキュール・ホテルに戻った。タクシー代は980フリント、チップを入れても約500円と安い。

 夕6時半、皆でバスで出発。カルレンベルグとかいう天井の低いレンガ造り、団体専用のような大きなレストランで夕食。メニューはビーフストロガノフ。ヴァイオリン、ギター、アコーデオンのトリオが多彩な演奏て雰囲気を盛り上げる。ヴァイオリン奏者の禿げ頭が店の節電に役立つくらい見事に光っていたのが印象的だった。旅の記念に背後からバッチリ写真に収めた。


夜景クルーズに乗る

 夕食後、夜のドナウ河クルーズに出かけた。クルーズにはオペレッタ・クルーズ、ディナー・クルーズ、ジャズ・クルーズ、ディスコ・クルーズなど、季節や好みに応じていろいろあるらしい。だが、我々のボートは中型の極く普通の遊覧船である。季節はもう冬だ。むしろバンドやショーなどの無い静かな船の方が、この季節にはふさわしい。

 くさり橋の下手から乗船した。夕暮には一時雲行きが怪しくなり、ドナウの上に粉雪が舞ったが、幸いそれも止み微風快晴の空にもどった。夕食時のワインの酔いで少し浮かれていた私は、バスの中にカメラを忘れてしまった。もう岸には戻れない。大失敗である。しかし、夜景の撮影はどのみちアマチュアーでは難しい。この際カメラなど気にせず、肉眼でしっかりと楽しもう。

 コートの両ポケットには小さなホカロンを忍ばせている。それをそっと握っているだけで防寒効果は抜群だ。コートの襟を立てマスクをして船室から甲板に上がった。舳先に回ると、眼前の光景に一瞬呼吸が止まりそうになった。「息をのむ」という表現があるが、余りの美しさに本当に息を飲み込んだ。

 先ずはライトアップされたくさり橋が目に飛び込んできた。凱旋門型の大きな二本の橋脚は白く輝き、そこに架かる電飾ライトが鎖状の線を画いて光っている。何とバランスの良い形だろう。ちょうど稜線の長い富士山を二つ並べたような形に光の帯がはしる。左手の丘では、王宮を中心に並ぶ建物群がライトアップされて夜空に浮き立っている。右手、くさり橋のたもとには、昼間訪れたフォーシーズン・ホテルが優雅な姿を際立たせる。船はくさり橋の下をくぐり川上へ向かう。左手にはライトアップされたマチャーシュ教会と漁夫の砦。まるでメルヘンの夢の世界に誘い込まれるようだ。右岸にはドナウ河畔で一番美しい建物と評される国会議事堂が見えてきた。この建物は朝でも昼でも美しいが、ライトアップされた夜の美しさはもう言葉にならない。ネオゴチックとルネッサンスを見事に融和させた設計者のイムレも、100年前にこの建物が完成した時、ライトアップされたこの夜の美しさを想像しただろうか。 そう云えば添乗員のM嬢が先日バスの中で語っていた。

 「今回でヨーロッパの添乗は55回目ですが、ブダペストの夜景にはいつ来ても感動します。最初の時には、仕事で来ているのに、感激して涙が止まらなくなり困りました。一度見たら一生忘れられない美しさですね」

 その時は半信半疑で聞いた彼女の言葉だったが、あれは真実だったといま改めて思う。甲板に立ちっぱなしの彼女の瞳は、今夜も少し潤んでいるようだ。

 船は中州に近いマルギット橋まで行ってUターンした。今度は下流に向かっていま来た航路をゆっくり引きかえす。乗客たちはそれぞれの往路の感動を反芻し、いま一度情景を脳裏に焼き付けようとして皆じっと動かない。教会の尖塔の上を一筋の白い雲が流れていく。その雲にまでライトが届いているように見える。空気が澄んでいるからだろう。エルジェーベト橋まで下ってきた。ここで川幅は市内で最も狭くなるが、それでも280mはあるそうだ。船は再びUターンして、やがて滑るように暗い川岸に接岸した。乗客たちのどの顔にも素晴らしいものに接した後の満足感が伺える。カメラを忘れたお蔭で、私もブダペストのライトアップ・ショーをじっくりと心に刻み込むことができた。バスに乗りこむ頃には再び小雪が舞い始めた。


クリスマスのウイーンへ

 夜中に目がさめることもなく良く眠れるようになった。これは時差ボケが治った証拠だ。とかく時差ボケが治る頃には帰国の日が近づいてくる。今回の旅もウイーンでの2日間で終わりを告げる。

 天気は快晴。8時頃バスでブダペストを後にした。ウイーンまでは約240キロ、予定では4時間のドライブである。日曜日の朝のハイウェイは静かだ。平日にくらべトラックの数が極端に少ない。市内を過ぎて郊外の農業地や牧草地にかかると、やがてあたり一面は雪景色に変わった。延々と続く丘陵地は10センチほどの雪でおおわれ、朝陽に輝いている。時折りホテルの立看板が目に付く。その外の業種の広告類は殆ど見かけない。沿道にホテルの看板が目立つのは、やはり欧州は車で旅行する人が多いからだろう。遠くに古い修道院が見えた。添乗員のM嬢によると、世界遺産の修道院だそうだ。名前はパレノンハルヤだったか。

 ヨーロッパ添乗数十回のベテラン添乗員M嬢の話を聞きながらバスはひた走る。失礼ながら子守唄がわりに聞いていたので、記憶は断片的だが、以下はその断片の記述である。

* オーストリアは人口800万、北海道と同面積の小さな国だがリッチな国だ。授業料は大学まで無料。但し、税金は高いし物価も高い。消費税は20%だがツーリストには免税措置がある。
* 現在ユーロ通貨を使用する国は12カ国。ハンガリーとチェコも2007年にはユーロに変わる。
* オーストリアやドイツの人たちは、温かい食事をとるのは1日に1食だけ。あとはパンとチーズだけの簡単な食事が殆ど。 * 日本人観光客のビュフェの食事マナーはまだまだ欧州各国で評判が悪い。ガツガツしないこと、無駄を出さないことが第一。
* 一般に欧州人は伝統的な自国の食文化にこだわる人が多い。日本人とちがい新しいものに急には飛びつかない。
* オーストリアの水道水はアルプスの水だが、硬水なのでコーヒーに合う。
* ウインナー・コーヒーと云っても通じない。アインシュペナーと云うべし。
* ハンガリーもオーストリアも経済発展につれて労働者が不足し、外国人労働者に依存しないと社会は成り立たなくなっている。
* ウイーンのオペラ座は毎日のように出し物が変わるが常に満席。それでも収支は赤字が続いている。文化は広めなければ意味が無いという基本思想が国や国民に根づいているためで、入場料の値上げは敢えてしない。 *オーストリアの高速道路には料金所はない。毎年、利用者は約4千円支払って1年間有効の高速道路チケットを購入するだけ。
* 60代以上の女性が転んで手首を骨折するのが、観光客の怪我としては最も多いので注意。ヨーロッパのドクターは若くて親切な人が多いので、怪我をしたり、急病で入院した中老年の女性客は全員が感激してしまう。貧血で入院しても、若いドクターにケアーされると直ぐ血圧は上がるし、骨折した人は、もう一度骨折したいなどど云い出す始末。冗談でなく本当です。
* 物価の高いウイーンでは、10ユーロ(約1500円)では何も食べられない。東京へ来たオーストリア人の友人が吉野家の牛丼が安いのにびっくりして、毎日通っていた。また、その友人は東京の100円ショップでわんさとお土産を買って帰った。
* オーストリーでは子供を生むと育児手当として毎月650ユーロ(約10万円)を6ヶ月間貰える。そして、2年間は職場に復帰する権利が保障される。
* 冬のウイーンは音楽のシーズンだが、同時にまた偽警官とスリのシーズンでもある。ご用心ください。

 午前10時少し前、国境に近いドライブインに立ち寄りトイレ休憩をとる。コーヒーを飲みピスタチオの袋詰めを買って、ポケットに残っていたハンガリーのフリントの小銭を使い切った。フリントも2007年には地球上から消えるのでこれが使い納めだ。

 10時23分バスはオーストリア領に入った。しばらくすると見渡す限り風力発電の風車が林立する丘陵地を通過した。世界で最初にゴミの分別収集を制度化した国はオーストリアだそうだが、国民の間にクリーン・エネルギーに対する関心も高いらしい。

 午前11時すぎバスはウイーン市内に入った。日曜日で道路がすいていたため予定より1時間早く着いた。運転手が喜んでいる。このバスはこれからブダペストまで戻るが、1日12時間以上運転することは法律で禁じられていて、違反すると運転手の自己負担で罰金を支払わなければならない。「帰路も渋滞はないだろうから、今日の仕事は10時間以内で終わるだろう」と彼は笑っていた。

 余り洒落にならないが、ウイーンに着いたので、街角の古めかしいレストランでウインナーシュニツェルの昼食をとった。食後は郊外にあるシェーンブルン宮殿へ急ぐ。常に観光客で混みあうため、見学時間は厳しい予約制になっていて、遅刻すると入場は拒否されるらしい。ガイドは盛んに時計を気にしている。


シェーンブルン宮殿

 オーストリアには世界遺産が8つあるそうだが、そのうちの一つが有名なシェーンブルン宮殿である。宮殿周辺は今日も観光バスでごったがえしていた。

 シェーンブルンとは美しい泉という意味だそうだが、元来はハプスブルグ家の夏の離宮として建てられた。夏の宮殿に我々は冬の季節に訪れたのだから仕方がないが、正門から前庭に入ると、地面には薄く氷が張りつめキラキラと光っていた。滑って転ばないようにへっぴり腰で進み、やっと見学者用の入口にたどり着いた。何とか予約時間に間に合って全員無事に入場した。

 パリのベルサイユ宮殿に対抗するものとしてこの離宮の建設は始まり1713年に完成した。外観は壮麗なバロック様式だが、内装はマリア・テレジアの時代(在位1740〜1780)にエレガントなロココ様式に改装され現在に至っている。外壁の色もマリア・テレジアの好みで、通称“マリア・テレジア・イエロー”と呼ばれる淡い黄色で統一されている。総部屋数は1441室と気の遠くなるような広さだが、現在一般にはほんの一部40室だけが公開されている。

 私は今回でこの宮殿を訪れるのは三度目だが、6才のモーツアルトがテレジアに招かれ初めて演奏を披露した「鏡の間」や、テレジアの寝室、ウイーン会議の舞台となり‘会議が踊った’大広間、エリザベートの夫君で実質オーストリーの最後の皇帝となったフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848〜1916)の地味な書斎などを覗いた。

 演奏会の日、幼いモーツアルトが大理石の床で足を滑らせて転ぶと、当時7歳の皇女マリー・アントワネットが駈け寄って助け起こした。その時モーツアルトが「君を僕のお嫁さんにしてあげる」と言って皇女マリーに結婚を申し込んだ。ハプスブルグ家の絶頂期の頃のことだが、「鏡の間」にはそんなエピソードが残っている。マリア・テレジアは何と16人もの子供を生んだが、フランス革命で断頭台の露と消えたマリー・アントワネットは一番末の娘だった。

 足早に戸外に出た。目的は折から前庭で開催中のクリスマス市の見学である。あちこちに屋台が出て広い前庭はお祭り広場のように賑わっている。折からの寒さの中、最も人だかりが多いのはホット・ワインを売る屋台だ。記念のマグカップに注がれたワインが一杯5ユーロ。観光客の殆どは宮殿の図柄が入ったマグカップをお土産に持ち帰るが、マグを返却すれば2ユーロ戻ってくる。広場に設置された立飲み用のテーブルに寄りかかり、マグで頬を温めながら飲んでいると、子供を3人連れた若夫婦が隣にやってきた。驚いたことにチビちゃん達もワインを啜っている。一番下の子はまだ小学1年生くらいだろう。赤いほっぺが益々赤くなりそうだ。

 会場の中央、大きなクリスマス・ツリーの傍の仮説ステージでは、男女5人の混声グループがクリスマス・ソングを歌っている。歌っていると云っても、ステージ上で寒さに震え、もう冷凍人間になりかかっている。声もさっぱり出ない。早くホットワインでも飲みなはれ。イエスもお許し下さるだろう。

 ホットワインで体も少しほぐれたので、冬枯れのバラ園まで歩いてみたが、風が余りにも冷たく強いので途中で降参した。昔、ローマ人はこの地をヴィンドモナ(風の吹く丘)と呼んだそうだ。そしてそれが今のウイーンの語源となった。ウイーンは昔から風の強いところなのだ。


シシィ・ミュージアム

 バスで市内へもどり、次は王宮(ホーフブルク)を訪ねた。部屋数2600室、ハプスブルグ家650年の居城である。目的は「シシィ博物館」の見学。王宮内の「皇帝の居館」の中で、特にエリザベート皇妃(1853〜1898)の日常生活に密着した6部屋がシシィ博物館となり2004年4月に公開された。シシィとは美貌の皇妃エリザベートの愛称である。

 1853年16才でオーストリアの最後の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に嫁いだシシィは、格式にうるさい皇太后とは反りが合わず、堅苦しい宮廷生活にはどうしても馴染めなかった。子供たちの養育も皇太后に仕切られ、手出しの出来なかった彼女は次第に鬱になり衰弱していく。侍医に転地療養を奨められてからは、もう王宮に落着くことは殆どなくなり、終生、有名な「皇帝サロン列車」などを使って旅を繰りかえし、旅先ではメランコリックな詩も書いた。

 そんなシシィも、美貌と美形という女の武器を失わないために、王宮“滞在中”にはダイエットとフィットネスに並々ならぬ努力をしたらしい。化粧室兼体操室という部屋には、平行棒など木製のフィットネス機器が当時のままに置かれていた。身長173センチの彼女が、常にウエストを50センチに保っていたというから、陰の努力は大変なものだったろう。器具からはかなりの荒業が想像できる。愛用の日傘や扇、溜息の出そうなアクセサリー類、婚礼の前夜に着たドレスのレプリカなども展示されている。寝室、浴室、リビングなどは、いずれも豪華さの中に女性の住いらしい優しさが感じられるが、気のせいだろうか、どことなく孤独の影が漂っている。

 オーストリア帝国は嫌われても、シシィだけは近隣のハンガリーやチェコの人々にまで愛される不思議な存在だった。公務を真面目にこなした夫君ヨーゼフ皇帝との仲も決して悪くはなかった。しかし、1889年に長男のルドルフ皇太子を悲惨なマイヤーリンク心中事件で失ってからは、喪服以外のものは一切身に付けなくなり、自身も9年後の1898年、スイスのレマン湖畔を旅行中にアナーキストの凶刃に斃れた。

 ハプスブルグ家御用達の宝飾店ケッヒャート社製の「星型の髪飾り」は、シシィのお気に入りだったそうだが、その髪飾りを髪に散りばめ純白のドレスを着た肖像画が飾られている。気品に満ちたポートレートを見ながら、16才で結婚し61才で逝った絶世の美女の波乱の生涯に思いを馳せた。館内には暗殺当時のデスマスクも展示されていることを後で知ったが、61才のデスマスクなど敢えて見ない方が良かったと思う。


夜のクリスマス市とホイリゲ

 ヒルトンウイーン・ホテルに到着。団体への対応は誠に要領がわるく、鍵を貰うまでに時間がかかり過ぎる。日本のホテルなどでは考えられないことだが、個人主義を貫き通すヨーロッパのホテルでは、客は待つのが当然だと思っているのでどうしようもない。ベテランの添乗員も「諦めるしかない」と云う。それは分かるが、適当に座って待てるくらいの椅子はロビーに用意すべきだ。フロント前のコーヒーショップに椅子はわんさとあるが、お金にならないロビーには椅子もソファーも置かない主義らしく、我々は先程から立ちっぱなしだ。ロビーにはモダンな彫刻が沢山並んでいるが、疲れている我々にいま必要なのは、芸術ではなく、座って待つ椅子である。あの彫刻を移動すれば、ソファーを置くスペースは充分取れる。このホテルのチェックイン対応には、腹が立つのを通り越して、もう呆れてしまった。大人数のグループを扱う資格はこのホテルにはない。

 夕方から市庁舎前の広場で開催中のクリスマス市に出かけた。この広場は市民生活と密着していて、映画、コンサートを始め各種のイベントで一年中賑わうところだという。クリスマス市もすでに恒例化し有名になっている。

 見事にライトアップされたゴシック様式の市庁舎を背景にして、広場中央には大きなクリスマス・ツリーが立ち、その傍らの厩を模したテントでは、等身大の人形たちがベツレヘムでのキリスト誕生の場面を演出している。昼間のシェーンブルン宮殿のクリスマス市も独特の魅力があったが、ここのテント市は規模も大きく、全体の飾りつけや夜の照明が一段とクリスマス・ムードを盛り上げている。派手なバルーンの束を掴んだピエロが、浮力で空に舞い上がるジェスチャーをしながらこちらへ歩いてくる。ホットワインを啜りながら、冷やかし気分で店舗を見て歩く。綿菓子、揚げパン、ソーセージ、ハム、菓子パン、香辛料などの食品から、おもちゃ、アクセサリー、人形、Tシャツ、絵本、ゲーム類など、店舗は多彩だ。大きな鍋で小粒な栗を炒りながら売っているオヤジさん。周囲には焼き栗の香ばしい香りが漂う。匂いに釣られて20粒ほど買ってみたが、表面は焦げてパリッとし中身はほくほく、実になつかしい味がした。

 夕食は市の北の郊外にある「ホイリゲ」の村グリンツィングまで足をのばした。ホイリゲとは元来はその年の新しいワインのことだが、いまでは「新しいワインが飲める居酒屋」のことも指す。オーストリアのワインは赤よりも白が一般的だが、気候的には日照に恵まれて育った糖度の高いブドウが原料のため、アルコール度はドイツワインなどより少し高めだそうだ。

 店の名前は忘れたが農家の納屋風の素朴な造りのホイリゲだった。奥の部屋からは大声で歌う学生歌のような歌声が響いてくる。これぞホイリゲの雰囲気だ。大皿にどんと盛られたソーセージ、茹でたポテト、ロースト・ポーク、フライドチキン、野菜サラダなどを肴に、白ワインをジョッキで景気よく飲み、話も弾んで楽しい夕食となった。やがてバイオリンとアコーデオンの楽士が回ってきて、曲目は忘れてしまったが、日本の歌やらドイツの歌やらを皆でがなった。すっかり出来上がってしまって、帰りのバスの中でもまだ下手なドイツ語らしき歌を唸っている人がいた。昼から夜までワインをよく飲んだ一日である。


ウイーンの森とバーデンの町

 夜中に胃が重苦しくて目が覚めた。室温も熱すぎ喉が渇いてからからだ。冷蔵庫の水を飲み、エアコンをオフにして改めて寝直す。

 昨夜の暴飲暴食を反省し、今朝は朝食を抜くことにした、と云うより本当は食欲がない。お湯を沸かし、ミニバー備え付けの緑茶のティーバッグ、ジャパン・クラシックとやらを飲んでみる。全然緑茶の味も香りもしない不思議な代物だった。次はレッド・フルーツ・ティーというバッグを試してみる。鮮やかなバラ色のお茶が出現したが、これは熟した果物のような芳香と風味が実に心地よく、二日酔いの朝にはぴったりだった。

 今日は市の南西に広がるウイーンの森を抜けて温泉の町バーデンまで出かける日だ。9時頃にホテルを出発。ガイドのミセス佐野はウイーン在住30年のベテラン・ガイドだ。低い声の落着いた口調が聞き易い。佐野ガイドは建築のことが得意らしく、19世紀末の芸術運動ユーゲントシュティール(フランスではアールヌーヴォー)の巨匠オットー・ワグナーが設計した「マヨルカハウス」や、ウイーンのガウディーと呼ばれた風変りな建築家フンデルトヴァッサー設計のアパートの説明などもしてくれた。ただバスが先を急ぐので、どんな建物なのか確認する間もなく、さっさと通りすぎてしまったのが残念。フンデルトヴァッサーは1997年に大阪市のド派手な清掃工場を設計して日本でも話題になった。

 来週はもうクリスマスだが、ガイドはアドベンツの話をはじめた。アドベンツとはクリスマス前の3週間の時季を指す言葉らしい。この時季になると、子供たちにはアドベント・カレンダーが親から与えられ、毎日一つづつ日付を剥がす度に、下からチョコレートが出てきたり、小さな玩具が出てきたりする。子供たちはそうして毎日楽しみながらクリスマスを待つのだそうだ。「もう幾つ寝るとお正月カレンダー」と云ったものは日本には無いが、なかなか微笑ましい風習だと思う。

 「ウイーンの森」とは、市の北西から南西の郊外にかけて、街をぐるりと取り囲むように広がる543平方キロの丘陵地の総称であって、特に特定の鬱蒼とした森などを指すわけではない。以前来たときの記憶では、ブドウ畑と林と野原ばかり広がっていたが、最近は住宅開発が進み景観も随分変わったようだ。ウイーン市内にアパートは少なく、いずれも家賃は高くて狭い。世界遺産に指定された都市なので、新しいアパートは市内には建てられない。従って、必然的に郊外の宅地開発が盛んになった。敷地500平米、床面積100平米、市中まで車で30分の家が約四千万円が相場だが、最近は渋滞がひどくなり30分では通勤できなくなったそうだ。

 欧州ではまだまだタバコを吸う人が多いが、ひと箱800円のタバコを吸いながら、リッター180円のガソリンを使っての通勤も、最近は渋滞のおかげで益々つらくなってきた、という佐野さんの言葉には実感がこもっていた。

 ヘンドリッヒシュミーレというフランツ・シューベルトが好んで滞在したという家に立ち寄った。庭先には菩提樹の木が2本植わり、そばに古井戸もある。その奥に小さな水車小屋があり、等身大のシューベルトの人形がベンチに腰を下ろしている。人形は例の彼独特の丸いレンズのメガネを掛けている。ベンチに座ってシューベルト君と肩を組んで記念撮影をした。シューベルトはモーツアルトより一世代後の音楽家だが、彼もわずか31才でこの世を去った。幼い時は現在のウイーン少年合唱団のメンバーだったそうだ。小学校の教師や家庭教師をやりながら600曲に及ぶ美しい歌曲を世に送りだした。

 ハイリゲンクロイツ村に到着。ここではハイリゲンクロイツ(聖なる十字架)の僧院を見学。12世紀から歴史を重ねてきた古い僧院は静まりかえり、白と黒の太い縦縞の僧衣に身を包んだ修行僧たちが、雪の積もった庭を横切って行く。中世にタイムスリップしたような静謐な時間が院内に流れていた。

 マイヤーリンクに入る。ここはエリザベート皇妃の最愛の息子ルドルフ皇太子と村娘マリアとの悲恋心中事件の村として有名だ。事件のあった「狩の館」には、その後、母エリザベートの希望で礼拝堂が建て増しされ、現在は尼僧院となっている。映画「うたかたの恋」では、プラトニック・ラブとして描かれているが、実際は16才のマリアはすでに妊娠4ヶ月の身重だったことが判っている。純粋なプラトニック・ラブなど、人間が動物であるかぎり所詮は無理なことだろう。

 バスはヘレネの谷間を抜けて行く。林の中を小川が流れ、小川に沿って小径が続く。降りて散策したくなるような穏やかな風景だ。晩年、聴力が弱りバーデンの町で静養したベートーヴェンは、この辺りをよく散策したらしい。ローマ時代の水道橋も見える。しばらく走ってバスは温泉保養地バーデンに着いた。

 ウイーンでは現在アンチエイジングのための温泉療法がブームとなり、バーデンの町も温泉とカジノで活況を呈しているらしい。かつてはハプスブルグ家の避暑地として栄えた町だが、冬のこの時季でも明るく開放的な保養地の空気が伝わってくる。カジノ会館も立派な建物だ。ベートーヴェンが最後の交響曲「第九」の最終楽章を書き上げたというベートーヴェンハウスの前を通ったが、家の前ではベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い母親の一団が朝のおしゃべりに余念がなかった。

 残念ながら温泉に入っている時間がない。町なかを一巡りしたあと帰路についた。帰りは高速道路に乗って一気にウイーンへ向かったが、反対車線は大きな衝突事故があったらしく大渋滞、道路は完全に麻痺している。我々の上り車線も事故現場を覗くためのスローダウン、見物渋滞で多少滞留したが、何とか予定通りウイーンに戻ることができた。もし事故がこちら側の車線で起きていたら、奥様方待望の午後のショッピング・タイムは完全に吹っ飛ぶところだった。

 オペラ座の近くのリュベラというレストランで野菜サラダとローストチキンの昼食をとったが、デザートのアップル・ケーキが素敵に美味かった。カフェの本場ウイーンではあるが、どこの店の食事でもデザートのケーキ類が本当にうまい。普段はケーキ類などに興味のない私が云うのだから間違いない。食後は日航系の土産物店プラザ・ウイーンに立ち寄りショッピング・タイム。時は来たれりとばかり奥様方の凄まじい買物合戦の火蓋は切って落とされた。この様子を見ていると、女性というものは男性とは基本的に異なる人種だということを痛感する。私も少しばかり買物をしたが、早めにホテルにもどった。今夜はオペラ鑑賞が控えている、その前に少し部屋で休養したい。


国立オペラ劇場へ

 ホテルの部屋でひと休みしていると、添乗員から「おにぎり弁当」が届いた。今夜の国立オペラ座の開演は6時、ホテルを出るのは5時だが、出掛ける前に腹ごしらえをしなさいという事らしい。まだ4時ちょっと過ぎだが、仕方なくおにぎり弁当を開ける。海苔も巻いてない白いおにぎり。どこの仕出屋のものか分からないが、見るからにお粗末なおにぎりだ。文化の都ウイーンに相応しくない。昆布の佃煮が申しわけ程度に入っているが、これでは到底塩気が足りない。成田空港で買った梅干がスーツケースで眠っているのを思い出した。ウイーンまで運んできた梅干にとっては、今まさに完璧な出番であった。

 パリ、ミラノと並んで世界3大オペラ座の一つ、ウイーン国立歌劇場は大戦時に受けた爆撃の傷跡も今はすっかり修復され、ネオルネッサンス様式の豪奢な姿は常に街のランドマークとなっている。完成は1869年、こけら落しに上演されたのはモーツアルトの「ドン・ジョヴァンニ」だったそうだ。成人してからのモーツアルトは、次第に宮廷から冷遇され見放され、失意のうちにチェコのプラハに移った。そして、プラハで作曲し初演されたのが「ドン・ジョヴァンニ」である。彼の死後78年が経った1869年に、このオペラ座のこけら落しが「ドン・ジョヴァンニ」だったということは大変皮肉なことだ。

 会場の雰囲気を壊さないためにも、それなりのお洒落をしましょうということなので、一応、背広にネクタイで出かけた。女性たちは、精一杯に着飾っている。

 どんなにお洒落をしても、洋装ではなかなか国際試合には太刀打ちできないが、姿勢よく和服をきりりと着こなした日本女性は人目を引く。豪華な会場の雰囲気にも決して負けていない。民族衣装、和服の持つ力を改めて見直した。正面の大階段を和服の美女が登って行く後姿はサマになっている。  客席総数は1642席。3万円以上追加を払って座席をランクアップした人もいたが、ケチな私は旅行社が用意してくれた29ユーロの席で我慢することにした。私の席は舞台に向かって斜め左側4階の桟敷式コンパートメント11番。コンパートメントの中は3段の雛壇式になっていて、最前列3名、2段目2名、3段目2名で合計収容7名。私の席は3段目だったが、それでも左斜め上から見下ろす形でステージは結構見渡せた。

 若い頃に音楽会には結構通ったが、オペラは3回ほどしか記憶がない。まして、この国立オペラ座のようにクラシックな桟敷席スタイルの劇場は初めてである。天井には豪華なシャンデリアが輝いている。天井桟敷まで入れて桟敷席が5層から6層も重なる構造は、自分が楕円形の巨大な樽の中に入ってしまったような感じを受ける。フォーマルな衣装の観客で埋め尽くされた桟敷席の重なりはさすがに華やかだ。遥か上段の立見の天井桟敷には音楽大学の学生たちが大勢詰めている。彼等は5時間以上立ちっぱなしでも平気だそうだ。マーラー、シュトラウス、カラヤン、小沢征爾など、代々の音楽監督のもと、多くの音楽家や声楽家を育ててきたオペラ座だが、彼等もまた何時の日か世に出るその卵たちだろう。

 今夜の出し物はワーグナーの歌劇「ローエングリーン」。幕間を入れると終演まで6時間の長丁場となる。いよいよ前奏曲の演奏が始まった。先ず驚いたのは、オーケストラの丸みのある柔らかな音が樽の底から湧き上がってきたこと。こんなに肌ざわりの良い繊細な音は過去に聴いたことがない。音響が良いとはこういう事なのか。私の席のように奥まった隅っこでも、音は見事に浸透して来る。これなら安心して最後まで楽しめそうだ。

 ソニーの名誉会長の大賀規典雄氏は、退職金で軽井沢に収容800名の音楽ホールを造った。そのホールは五角形に出来ていて、音がぶつかり合って互いに邪魔をする平行壁面が一切ない。音響測定の結果そのホールは耳を刺す音のない最高の音響という折り紙が付いた。このオペラ座の構造も、内部は全て丸みを帯びていて平行壁面がない。まして桟敷スタイルでは、埋め尽くした人間が壁を作っているので、音を弾くような固いものは何もない。何とも云えず耳に優しい音の響きはそれ故だろう。

 古典的なな衣装や舞台を想像していたが、幕が上がると、出演者の服装も舞台装置も全てがシュールでクールなのにびっくり。超モダン感覚の舞台である。前の席の外国人夫妻もコンテンポラリーとかモダーンとか言っている。これは相当思い切った革新的演出に違いない。素人の私には現代オペラ事情はよく分からないが、クラシックな劇場には、クラシックな舞台の方が似合う気がする。観光客もその方が喜ぶだろう。だが、オペラ馴れしてしまったウイーンっ子たちは、こういう新しい刺激が欲しいのかも知れない。

 コンパートメントの壁には小さな液晶スクリーンが装備され、舞台上で歌われる歌の歌詞がリアルタイムで英語で表示される。その英語を横目で読みながら舞台を見れば歌の内容やストーリーが分かる仕組みだ。しかし、ストーリー自体が余りにもロマンチックで荒唐無稽な「ローエングリーン」である、今さらその歌詞やストーリーを追いかけても仕方がない。この際は純粋に歌声と音楽を楽しむことにした。

 第3幕への優雅な前奏に続き、かの有名な「婚礼の合唱」が劇場全体を震わせるように湧き上がった。ワグナーの「結婚行進曲」として日本でも結婚式でお馴染みの曲だが、このように本来の場所で聴くと誠に迫力がある。例のメンデルスゾーンの「結婚行進曲」よりこちらの方が力強い。「勝利への勇気と愛こそは二人を結ぶ誓いたれ、青春の戦士よいざ進め」と合唱は高らかに謳いあげる。白鳥の騎士ローエングリーンとエルザ姫の婚礼の衣装が、まるでニューヨークの下町の若者みたいなのが少し気になるが、この際はそれも良しとしよう。

 途中30分のインターミッションが2回あった。話には聞いていたが、この幕間のホールの雰囲気が如何にもウイーンだった。フォーマルに着飾った人達がシャンペンやワインを片手におしゃべりに花を咲かせる。いつかどこかで見た映画のシーンのように華やいでいる。シャンデリアの下での皆の話題は、今夜の舞台や年末恒例の社交舞踏会のことなどのようだが、オペラや舞踏会が生活の一部になっている様子が見てとれる。

 ホールの一角にあるスタンド・バーではシャンペン4ユーロ、赤・白ワイン3.5ユーロ、カナペ各種2〜2.5ユーロ、ミニケーキ1.9ユーロが飛ぶように売れている。時間的にも丁度お腹の空かしている人が多いのだ。限られた時間内での勝負、売り子たちの手さばきが実に敏速で、しかも上品なのには感心した。私は幕間には2回とも白ワインを飲んだが、その白ワインの美味しかったこと、そして、売り子のお嬢さんの笑顔がまた素晴らしかったこと。奇妙なことに、それは今度の旅の中でも最も印象に残っっているシーンの一つである。白ワインの銘柄をボーイに尋ねたが、そのメモを何処かへ失くしてしまったのが残念である。

 さて、舞台はようやく終幕に近づいた。エルザ姫はタブーを破り、白鳥の騎士ローエングリーンに氏素性をひつこく尋ねる。それを尋ねられたら、エルザの前から消えなければならない神の掟を背負ったローエングリーン。彼は静かに去って行き、絶望の余りやがてエルザも息絶えた。

 しばらく続いたカーテンコールも収まり、正面玄関へ出ると外は深夜の雪景色だった。劇場をライトアップしている光の中へ舞い降りてくる粉雪が白いレースを思わせる。バスが来て乗り込む頃には、粉雪はボタン雪に変わっていた。


旅はみちづれ

 今日はツアーの最終日、つまり帰国する日である。午前11時ウイーン・シュベヒャート空港に到着。バスの胴体から出てくるバゲージを皆でチェックする。その時、白髪が美しいO夫人のベージュのショールが、折からの風にあおられ大きく舞い上がった。瞬間、彼女が身に着けていたポシェットが私の眼に入った。

 「成田でそれとそっくりのポシェットを実はーーー」と私が呟いたその時、彼女は30センチ以上も飛び上がり、私に抱きついてきた。

 夫婦参加が多い今回のツアーの中で、お互いに単身参加同志だったため、食事のテーブルが度々一緒になったり、O夫人とは旅行中かなり親しくなった。いつも周囲に笑いの絶えない大らかな人柄の人である。

 脳内出血で言語機能を失くしたご主人を車椅子に乗せて、17年間も毎年海外旅行に連れて出たが、そのご主人も半年前に亡くなり、今回は未亡人になってから初めての独り旅とのこと。家の中だけの介護生活ではお互いに暗くなるので、日常の贅沢は抑えてでも努めて旅に出た。言葉を失ったご主人だが、眼を見れば殆ど意思の疎通には困らなかったそうだ。試練を経てきた人の持つ独特の落着きと魅力が感じられるO夫人である。

 出発の日、彼女は搭乗直前になって気がつき、青くなって空港遺失物係に駆け込んだ。パスポートと搭乗券は身につけていたが、外貨と円の入った財布、カード類、スーツケースの鍵、自宅の鍵、その他貴重品類、そしてご主人の写真も全てあのポシェットの中だった。

 「主人の居ない独り旅で、つい気が緩んでしまったようです。毎日毎晩、どなたが届けて下さったのか気に病み、その方に生涯お礼を言うチャンスはないのかと、今回は気持ちの重い旅でした」

 それにしても、偶然とは時折り面白い悪戯をしてくれるものである。オーストリア航空51便の搭乗待合室。明るい表情のO夫人が、先程から私の前を通る度に両手を合わせて拝んでいく。皆が見ている。このままでは、どこぞやの教祖さまと間違えられそうだ。

《完》



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