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「アメリカ文化に触れる旅−ミシシッピー南部流域からニューヨークへ」 小林正典
1月/07

10月9日(土)台風22号の日の出発

 伊豆半島をツムジ風に巻込んだ台風22号は、そのまま房総半島に向かって北上しつつある。午後3時10分発のNW26便デトロイト行きは、果たして台風が接近する前に成田を飛び立てるのか。すれすれのタイミングになりそうだが、とにかくスカイライナーで空港へ向かった。

 ―――予定の便は定刻より少し早めに搭乗を開始した。ぎりぎりだが、どうにか台風襲来前に離陸できるらしい。やれやれである。

 ところが、塔乗後30分経っても動かない。やがて機内アナウンス。
「只今、緊急メカニック・チェック中です、暫くお待ちください」
いらいらして待つこと暫し、ようやく機はゲートを離れた。だが、我々より前に離陸待ちがまだ2機もスタンバイしている。エンジン音にかき消されて嵐の音は機内まで届かないが、窓から覗くと雨は真横から叩きつけて、視界はもうゼロに近い。そのうち強風に煽られて、ジャンボ機はびりびり痙攣し、船のようにぐらつき始めた。恐ろしい。こんな経験は初めてだ。

 ―――搭乗後1時間半も待たされて、やっと我々の順番がやって来た。しかし、素人目で見ても、もう離陸できる状況ではない。
やはりアナウンスがあった。
「悪天候を避けるため、ゲートに戻ります」
機はゲートに逆戻り、乗客は降ろされてしまった。メカニック・トラブルでロスしたあの1時間が仇になった。あれさえ無ければ、台風の接近前に充分飛び立てたのにーー。
ロビーに居た航空会社の係員は澄ました顔をして云った。
「台風の通過を待ってから出発することになりました」

 こんな時、人間の考えることはみな同じだ。この先何が起こるか分らないから先ず腹ごしらえだとばかり、乗客たちはゲート近辺の売店へ急ぎだした。お蔭でラーメン、うどん、サンドイッチ類はあっという間に完売。もう売店にはピーナッツと柿の種ぐらいしかない。もそもそと柿の種をかじりながら、ロビーの大型スクリーンでブッシュ対ケリーの大統領選の討論を見て時間をつぶす。出発前からとんだ話の種ができてしまった。

 幸い台風22号は速度を上げて早目に千葉県を通過し、8時過ぎには離陸できることになった。結局、5時間のディレーとなったが、搭乗してみると、皮肉なことに機内BGMはヴィバルディーの「四季」を流している。何だかそれは、ディレーは季節台風のセイで、メカニック・トラブルが原因ではありません、と航空会社が言い訳しているように聞こえた。

 うとうとしていたが、物音で目が覚めた。ステュワーデスたちが私の席から数メートル先にあるトイレのドアを、ガムテープで懸命に目張りし、一人は床をモップで拭いている。何事かと訊ねると、客の一人が大量に嘔吐し、トイレが使用不能になったとのこと。汚れがひどく応急の清掃も不可能な状態なので、何とか臭いだけは機内に漏らさないよう、目張りを急いでいるとのこと。なるほど、周辺には悪臭がすでに流れはじめている。幸い客の大半はすでに寝入っているから気付かない。 深夜でもこうゆう汚れ仕事が彼女達を待ち受けているのか。機内の乾燥から喉を守るために用意してきたマスクが、別の用途で役に立ち、私は彼女たちの重労働に感謝しながら眠りについた。


セントルイス到着

 10時間以上飛んで、デトロイトには同日10月9日の夕方6時半に到着した。大きな空港だ。今まさに平原に真っ赤な夕陽が沈んで行く。あの向うにエリー湖が広がっているのだろうか。空港ビルの温度計が外気温11度Cを示している。入国手続きは比較的スムースに済み、国内線へ急ぐ。

 7時25分発のセントルイス行最終便にすれすれで間に合った。これに乗れないと、今夜はデトロイト泊まりとなり、初日から旅程が大きく狂ってしまうところだった。安堵感も手伝って、機内サービスの一杯の紅茶が殊のほか美味い。

 1時間ちょっとのフライトで、8時40分セントルイスに到着。新海ノリ子さんというセントルイス在住20年の女性ガイドが迎えてくれた。ちょっと教養のある奥様という感じで、ツアーガイド臭くないのが気に入った。彼女が悪びれずに宣言した。
「時々頼まれてガイドをやるだけで、私は決してプロではありません」
プライバシーに拘わるのでキャリアーは敢えて訊ねなかったが、品性もあり自分をしっかり持っている人のようだ。

 今から丁度200年前の1804年、アメリカ開拓史に残る二人の探検家ルイスとクラークは、セントルイスからスタートしてミズーリ川を西へ西へと進み、遂に太平洋側のオレゴンにまで到達した。

 以後、西部への全ての活動はここが基点となり、セントルイスは西部開拓史における交通の拠点として発展、一時はニューヨーク、サンスランシスコと肩を並べて、米国3大都市の一つにまでなった。それ故に、この街は今でもGATEWAY TO THE WESTと呼ばれ、市民は誇りを持っている。

 現在、市の人口は280万、全米で16番目に位置するが、バドワイザー、モンサント、ボーイング、マクドナルドなど、大企業の本社が今でもセントルイスに置かれているのは、そういう歴史的背景があるからだろう。

 新海ガイドの説明――米国中西部ミッド・ウエストは全てに保守的な土地柄なので、店舗が閉まるのが実に早い。ホテルに着いたら、どこでもいいから開いているレストランに急いで下さい。でないと、夕食を食べそこないます。ここは野球のセントルイス・カージナルスのホームタウンで、日本の田口選手も現在ファームで頑張ってます。セントルイス・ブルースというアイスホッケー・チームが地元にありますが、日本の中高年がセントルイス・ブルースと云うと、それは100%あの曲のことです。地元の人は「日本人もアイスホッケーに詳しい」と思って驚きますが、残念ながら全然話が噛み合いません。駐在員まで入れて、現在日本人は約2千人この町に住んでいます。

 ハイアット・ホテルに到着。ロマネスク調の古風な建物にびっくり。それは1894年、当時の金で650万ドルを投じ、ユニオン鉄道の駅舎として建造された建物だった。市の再開発計画の一環として内部の改装を進め、1985年にはユニークなホテルとして生まれ変わった。現在、ホテルはその後背後に完成した100店舗の大型モール「ユニオンステイション」と繋がり一体化しているが、建物はアメリカの鉄道全盛時代を偲ぶ貴重な文化財であり、セントルイスが誇るランドマークの一つである。

 夕食の場所として狙いをつけていたモール内のステーキハウスは、急いで行ったのに既に閉まっていた。モールの一番奥に大型TVを備えたスポーツ・バーが一軒だけ開いていたので、仲間4〜5人と飛び込む。バドワイザーの生と12インチのピザで何とか腹の虫を治め、成田出発以来長かった一日の夕食は終了した。 深夜でもないのに既に人気のない巨大ショッピング・モールを通り抜けてホテルへ戻る。部屋のテレビを点けると、CNNが昨日ここセントルイス市のワシントン大学で行なわれた大統領選ディベートの結果を、ケリー47対ブッシュ45と伝えていた。


10月10日(日)晴れ  トム・ソーヤーの町へ

 今日は文豪マーク・トゥエインの名作「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の舞台となった町ハンニバルを訪ねる。

 ガイドは昨日と同じ新海さん。彼女の話――セントルイスも完全に車社会で、歩いている人は見かけません。再開発とやらで郊外に住む若い人が増え、人口280万のうち市内に住むのは50万人だけ、市中人口は縮小し、益々車社会になっています。郊外の宅地開発はインフラ整備に金がかかるので、当局はあまり歓迎しませんが、「郊外の広い家」というアメリカ的嗜好は相変わらずで、エネルギーや環境問題には殆んど無関心です。私は長年アメリカに住んでますが、未だにこの国の「広さ」と「激しさ」の感覚にはどうしても着いて行けません。何事にもダブル・スタンダードで、自分の都合の良い方にばかり解釈するし、あまり恥を知らない国です。東海岸はまだマシですが、アメリカ中西部はデブの国です。とにかく食べ過ぎ肥り過ぎです。アメリカも少子化が進み、子供にノーと言えない親が増え、子供は年々スポイルされてます。見せるためだけで、汚さないキチン、調理をしない家庭が随分増えました―――。

 彼女のなかなか手厳しいアメリカ評を聞きながら、バスは高速70号に乗り、ミズーリ河を渡ると直ぐ国道61号線に入った。広大な農業地帯を貫くこの道路を150キロほど北上するとハンニバルである。沿線では色づきはじめた木々が小春日和の陽射しを浴びている。新海ガイドの話にあった住宅開発もあちこちに見受けられる。3ベッドルームの戸建てが25〜30万ドルが相場だそうだ。

 やがて周囲は見渡すかぎりのコーン畑に変った。この辺りの農業も次第に大企業による大型化が進み、エアコンとテレビ付のトラクターが使われている。広大な牧草畑も見えるが、牧畜業も大企業に集約され個人農家はめっきり減ってしまったそうだ。この周辺は春先によく竜巻が起きて、ニュース種になるらしい。昨年も奥さんは地下室で無事だったが、ご主人は飛ばされて木の上で死んでいた事件があった。

 やがてバスはハイウエーから降りた。この近辺にはスカンクが生息していて、飛び出して来たのをうっかり轢いてしまうと、町じゅうが鼻を摘んでもう大変な騒ぎになるそうだ。スカンクを踏まないように慎重運転の末、だらだら坂を下ってミシシッピー河畔に出たと思うと、もうそこはハンニバルだった。人口1万8千人、碁盤の目状のダウンタウンは、東西南北いずれも数ブロック歩けば突き抜けてしまいそうだ。清潔で小さな田舎町である。

 トウェインは4才から18才までの多感な時期をハンニバルで育った。12才の時には判事だった父をここで亡くしている。やがてニューヨークに出て印刷工になったり、放浪の旅に出たりしたが、20才の時にはひょんな事からミシシッピーの水先案内人を経験した。彼のペンネームの「マーク・トウェイン」は、水先案内人が船を誘導する時に叫ぶ「水深2尋を確認せよ」という専門用語である。

 彼が少年時代を過ごした家が保存されていた。木造・羽目板張りの2階建ては、真新しく白ペンキで塗られていて、外観は150年前の家には見えない。

 だが、家の中は当時のままに保存され、台所、居間、ベッドなど全てが質素で古い。よく見るとあの「トム・ソーヤーの冒険」に描かれたトムの家にそっくりである。ポーリー叔母さんや従弟のシッドが今にも壁の向うから顔を覗かせそうだ。この家を見ただけでも、トウェインの作品が如何に少年時代の彼の実体験に根ざしているかが判る。

 屋敷を囲む白い板塀。これがトム・ソーヤーが近所の子供たちに上手く計ってペンキを塗らせたあのフェンスなのか。筋向いにはトウェインの初恋の少女ローラ、即ち作中ではトムのガールフレンドのベッキー・サッチャーの家や、彼の父の法律事務所なども残っていた。見学しているうちに、トウェインとトムがすっかり頭の中で絡み合い重なり合ってしまった。

 メインストリートにある新ミュージアムにも立ち寄ったが、画家ノーマン・ロックウエルが描いた15枚の挿絵の原画は、トウェイン作品のイメージを的確に捉えていて見事だった。2階にはリバーボートの操舵室のレプリカがあり、前方に本物のミシシッピーの茶色い流れを眺めながら、ピーポーと汽笛を鳴らし、操舵の真似事が楽しめる仕掛けになっていて愉快だった。

 ルーラベレズとかいう河畔のレストランで昼食となった。マッシュポテト、マカロニサラダ、ビーンズ、ローストビーフ、フライドチキンに甘いデザートなど、胸の焼けそうなものばかりが大皿に盛られて次々に出てきたが、ピクルス、野菜スティック、コールスローなど食物繊維類を懸命に食べて何とか胃袋を中和した。それにしても、日曜日はアルコール販売は禁止とかで、ビールも飲めなかったのが残念だった。宗教も結構だが、観光地の店ならもっと客の立場で考えてもらいたい。

 遊覧船、公園、劇場、食堂、書店、観光馬車、土産店など、この町では到るところにマーク・トウェインの名が付けられている。彼はもう完全に英雄である。

 素朴な田舎町の自然の中で、のびのびと冒険や悪戯に明け暮れたあのトムやハックの世界は、アメリカ独特の躍動感に満ち、古いヨーロッパの匂いが一切ない。トウェインは「米国近代文学の父」と呼ばれるが、アメリカ人の誰もが彼を愛するのは、その文学的価値よりも、先ず彼のオリジナリティーに誇りを感じるからだろう。また、少年文学作家と思われがちだが、彼自身は「少年時代を思い起こしてもらいたくて、大人の為にのみ書きました」と云っているのが面白い。

 今のアメリカにとって、古き良きトム・ソーヤーの時代は益々遠くなりつつある。しかし、リバーボートに乗って、カヌーで逃げ出したあのハックルベリー少年が潜んでいた中州の辺りを回遊したり、トムとベッキーが三日三晩さまよった鍾乳洞を探険したりしているうちに、私も少しづつ遠い少年の日に帰って行った。

 ハンニバルのピクニックから無事セントルイスに戻ったその晩は、ダウンタウンの「マイク・シャノンズ」というレストランに全員で出かけた。シティー・ホール前の大通りをぞろぞろと歩いて行くのは我々だけで、地元の人は一人も見えない。日曜の夜とはいえ、皆どこえ消えてしまったのだろう。

 ステーキとシーフッドのその店は、雰囲気も料理もサービスもまずまずだった。マイク・シャノンは地元セントルイス出身で、1960年代にカーディナルスの内野手として活躍した選手だ。おそらくこの店のオーナーは彼なのだろう。店内には彼の現役時代の写真やユニフォームが飾ってある。折から、カーディナルスはLAドジャースとプレーオフ対戦中で、その晩の店の客も試合経過が気になって、落ち着いて食事どころではなさそうだった。

 片や我々の方は、これから先の旅への期待に大いに気炎も上がり、皆でワインの栓を抜き過ぎてしまった。


10月11日(月)セントルイス市内観光

 朝起きたら喉をやられていた。昨夜は酔った勢いで毛布を掛けずに寝てしまったらしい。私が旅行中によくやるミスである。
食堂でウエイトレスに声をかけたが声が出ない。旅行はこれからなのに発熱でもしたら大変だ。朝食もそこそこに部屋に戻り、持参の常備薬を多めに頬張る。今日は朝のうちセントルイス市内をざっと観光し、昼頃の便でメンフィスへ移動する日である。

 ホテル前のマーケット大通りを真直ぐ走って、先ずダウンタウンの東の端、ミシシッピー河畔に立つ市のランドマーク「ゲートウエイ・アーチ」を訪ねる。大空に聳え立つ半円形の大アーチは、高さが192mもある。ガイドの新海さんが分り易い喩えを云った。
「池袋のサンシャイン・ビルくらいの高さです」
何の飾り気もないシンプルなデザインだが、巨大な銀色のアーチが紺碧の空を背景に朝の光に輝いている。まるで巨大な銀色の虹である。1965年に完成したそうだが、よくぞこんな巨大なモニュメントを建造したものだ。セントルイスこそ西部アメリカへの入口だ、という市民の心意気に支えられて完成したのだろう。ニューヨークの自由の女神、ワシントンのオベリスクと共に、全米3大モニュメントの一つと言われるそうだが、その潔い姿を見て納得である。

 アーチの中は4人乗りの卵型カプセルが走っていて、頂上で降りると小さな覗き窓が幾つかあり、その窓からの眺めがまた絶景とのこと。我々も話の種に昇ってみたかったが、すでに先客が長い列をつくっていたので諦めた。

 ミシシッピー河の対岸はイリノイ州になるが、見るとCASINOと書いたリバーボートが向う岸にずらりと並んでいる。まるでカジノの無いミズーリ側に「いらっしゃい、いらっしゃい」と手招きしているみたいだ。

 再びバスで市内に戻り、レンガ造りの洒落たアパートの前を通った。それは低所得者向けの公営住宅で、郊外に逃げた人口を市内に呼び戻すために当局が建てたものだが、あまり効果は上がっていないそうだ。
若者や高学歴者は郊外に出て行き、都心は高齢者ばかりで空洞化するという現象は、いまアメリカの中小都市で社会問題化しているらしい。

 カソリック系のセントルイス大学を過ぎ、リンデル通りを西に走ってセントルイス大聖堂に立ち寄った。御影石造りのグレーの外壁、二つの塔と中央ドームの緑のタイル屋根。歴史は100年、なかなか風格のある聖堂である。外観はロマネスク、内部はビザンチンというのがこのカテドラルの特色だそうだが、なるほど内部は完全なビザンチン様式だった。

 窓のステンドグラスも美しいが、1907年以来80年かけて、20人の芸術家が手分けして完成させたというモザイク画が立派だ。色調の種類は全部で8千色、4200万個のガラス片が使われているとか。中央ドーム奥の主祭壇の両脇に東西二つのチャペルがあるが、西側の「聖母のチャペル」はニューヨークのティファニー社の製作で、受胎告知をはじめ、聖母マリアの生涯を描いたイタリア式のモザイク画が実に繊細だった。  大聖堂を出て直ぐのところに、フォレスト・パークという広大な公園があった。世界博の跡地らしい。公園の周りは豪邸が並ぶ高級住宅地である。テニスのデイビス・カップ戦はこのフォレスト・パークが発祥の地だそうだ。園内にはテニスセンター、美術館、歴史博物館、オペラ劇場、動物園からゴルフ場まで揃っている。セントルイスでは美術館や博物館は全て入場無料だとガイドさんが云っていたが、さすがに歴史のある都市の文化的蓄積は豊かで羨ましい。


メンフィス到着

 セントルイスから1時間15分飛んで、昼過ぎにはテネシー州メンフィスに着いた。人口は全体で115万人だが、市内に住むのは65万人である。昔ここは黒人労働者に支えられた綿花産業の中心、綿花の一大集積地として栄えた。

 またゴスペル、ブルース、ソウルなど黒人音楽の故郷であり、ブルースのハンディー・ホーム、ソウルのオーティス・レディング、そしてロックンロールの帝王エルビス・プレスリーを生んだ町でもある。大ヒットしたテレビドラマ、アレックス・ヘイリーの「ルーツ」や、映画「法律事務所」「依頼人」などもこの町で撮影され、アメリカの黒人文化や大衆文化とも縁の深い土地柄である。

 黒人開放運動の先頭に立ったキング牧師が暗殺されたのも、ここメンフィスのモーテルだった。そのモーテルは今では国立公民権博物館となって一般に公開されている。

 表通りは近代的だが、裏通りに入ると何となく寂れた感じを受ける町である。それは綿花産業という栄光の時代が去ったからなのか。それとも、ここでも郊外に人口が移動し、都心の空洞化現象が進んでいるからか。

 だが一方で、ノースウエスト航空がここをハブ空港に決め、毎日650便も発着させたり、FEDEXなどの大手流通企業が本社を構えたり、メンフィスが再び南部の中心都市として生まれ変わろうとする動きも活発化している。そのための都市再開発計画も着実に進んでいると聞いた。

 ミシシッピー河沿いのリバーフロントには公園というか広大な原っぱが広がっていた。歴史的な背景は聞きそびれたが、ここでは毎年5月に「世界バーベキュー選手権」が盛大に開催されている。 全米各地から予選を勝ち抜いた限定100チームが集まり、ビーフ、ポーク、チキン、その他の食材の四部門で腕をふるい、3部門の合計点で勝ったチームがグランド・チャンピオンとなる。審査のポイントは味の良さ、柔らかさ、見た目の良さ、焼けた肌合いの4項目だそうだが、審査員もさぞかし大変なことだろう。朝から晩までBBQでは、ひっくり返ってしまうのではないか。私の住むグアムも何かというとBBQの島なので、毎年島の優勝チームを送り込むが、残念ながら未だ入賞したことはない。グアムの特製チャモロ・ソース(フェナデニ)を使ったのBBQを、是非アメリカ本土にも広げて貰いたいのだが。


グレースランドを訪ねる

 市内観光では、先ずエルビスの足跡を訪ねて「グレースランド」を訪問した。没後27年、未だに毎年60万人もの人が世界中からやってくる。ここはまさにエルビス教の大本山である。彼がこの屋敷を購入したのは、デビューしてまだ4年目の1957年、22歳の時だった。17枚のゴールデン・レコードを世に送り、彼はその時すでにスーパースターだったが、反面、疲れも出てきていて、逃げ込める隠れ家を探していた。

 元来は2万坪近い森とマンションをグレースランドと呼んでいたのだが、彼の死後、次第に周辺の観光地化が進み、今ではお屋敷、20数台の車の展示、専用ジェット機の展示、ギフトショップなど、全体を総称して「グレースランド」と呼んでいる。

 チケット売場から専用バスに乗ってお屋敷見学に向かう。ちょっとした森林公園に入っていく感じだ。プライバシーを守るために彼が造ったという正門から入ると、間もなく車寄せに着いた。

 白い壁に黒い屋根。格子窓のある二階建てマンション。神戸や横浜にもあった昭和初期の「洋館」を思わせる。外観はシンプルでむしろ少し寂しい感じもする。

 玄関を入る。玄関ホールとリビングを仕切る孔雀の模様のステンドグラスが印象的だ。リビングの奥にはグランドピアノや当時の箱型テレビが見える。左手には青の色調でまとめたダイニング。見学順路に沿って奥の各部屋を覗いたが、ジュークボックス、ソーダ・ファウンテン、録音ルーム、ビリヤード、金ピカのピアノ、ジャングル風の部屋、空手・ボクシング・コーナーなど、若い男が友人たちと遊ぶのには適した家だ。だが、独りになった時、静かに身を休める空間が無さそうだ。内装も全体に賑やかで落着きがない。寂しがり屋で友人との賑やかな時間が好きだったエルビスの、彼らしい住空間だと言えるのかも知れない。

 母屋と回廊でつないだ別棟には、ゴールドやプラチナ・ディスク、トロフィー、記念額などが壁一杯に飾られ、その数の多さには圧倒される。到底数え切れる数ではない。例のロングケープ、金ラメのジャンプスーツなど、豪華絢爛奇抜なステージ衣装もずらりと展示され眩いばかりだ。

 屋外に出ると、裏庭は広々とした牧場になっていて、馬が数頭のんびりと遊んでいた。かつて彼の父はこの裏庭で野菜を作り、母はニワトリを飼い、エルビスは馬と遊んだ。その母もここに住んで1年も経たずに病没し彼を随分悲しませた。

 前庭にはエルビス自身が設計したという噴水プールがあり、その傍らに「瞑想の庭」と名付けられた一隅があった。60年代の半ば、何本もワンパターンで繰り返されるエルビス映画に嫌気がさし、ライブ公演にも疲れ、レコーディングにも意欲が湧かず、彼は「私はエルビスで居ることにもう疲れた」と呟き、何をするでもなく物思いに耽っていた時季がある。この一隅がその頃の彼の居場所だったのだろうか。

 ドイツでの2年間の兵役中に知り合った米軍大佐の娘、当時14才だったプリシラと、9年越しの恋が実り67年に結婚。翌年には娘のリサ・マリーが生まれる。彼は再び元気を取戻してカムバック。ロックはもとよりスローバラードやゴスペルにも磨きがかかる。幼い頃、母に手を引かれて教会に行くと、いつも祭壇の脇に腰掛けて歌っていた彼。ゴスペルはエルビスの原点である。
当時、エルビスの後を追っていたビートルズやローリングストーンを尻目に、ラスベガスやテレビで大活躍。あのド派手なジャンプスーツは彼のトレードマークとなった。

 しかし、その後も余りにも自分の時間の無い生活が続き、72年にはプリシラとも離婚。信心深くストイックな性格の彼は、70年代後半には再び神経を病み、クスリに依存したという噂もある。
1977年8月16日、この自宅で心臓発作で倒れ、42年の短くも華麗なる生涯を閉じたが、葬儀には数万人が押寄せメンフィスの町は騒然となった。そして、1ヵ月後には、彼の墓が狂信的なファンによって盗掘される怖れが出て、急遽、遺体はこのグレースランドに戻された。

 いま彼は私の目の前「瞑想の庭」の土に眠っている。その後ここに埋葬された祖母や両親とも一緒である。畳1畳半ほどの大きさの平らな墓石が四つ、肩を寄せ合うように並んでいるが、墓は今日もファンが捧げた生花や造花で埋まり、まるで花壇のように華やかだ。日本のファン・クラブから贈られた花輪も飾られていた。

 帰りのシャトルバスの中で、隣の黒人が東洋人の私にささやいた。
「黒人音楽の素晴らしさを、白人に認めさせたのがエルビスの功績さ」。

 なるほど黒人から見ればエルビスの本質はそこにあるのか。4代遡ると、エルビスにはチェロキー・インディアンの血も流れているそうだが、彼の音楽のル―ツが「黒人の叫びと祈り」にあったことは確かだろう。そして、あれだけセクシーに迫りながら、彼のステージがどこかストイックな哀愁を感じさせたのは、彼の活動の全てが厚い信仰心に裏打ちされていたからではないだろうか。

 バスは門をぬけて大通りに出た。窓から振り返ると、森の梢はすでに色づき、グレースランドにもやがて秋が近いことを告げていた。


名物マガモの行進

 天気は急に雨模様に変り気温も下がってきた。キング牧師が暗殺されたモテル「ロレイン」や、エルビスを世に送り出して有名になった小さなスタジオ「サン・スタジオ」などを見学した後、ダウンタウンのピーボディー・ホテルへと回る。目的はホテルの名物「ダックマーチ」の見物である。

 数羽のマガモが夕方5時にはロビー中央にある池から出て、赤絨毯の上を行進し、エレベーターで屋上のネグラに帰る。マガモの朝の出勤と夕べの帰宅の行進が、今や町の名物にまでなってしまった。ユーモラスだが誠に希妙な名物である。

 我々は5時前にホテルに着いたが、すでにロビーは人で立錐の余地もない。たかがマガモの行進を、大勢の人間が‘真顔’で待っているとは洒落にもならない。人間とは不思議な動物だと、マガモもさぞ呆れていることだろう。野次馬根性なら誰にも負けない私も、何とか2階席から覗こうと試みたが、人間の頭ばかり見えて、結局、マガモのマの字も見えなかった。間が抜けたとはこのことか。

 いささか疲れてヒルトン・メンフィスにチェックインした。ホテルは円筒形の高層建築で全面ガラス壁、ロビーなども明るく斬新な設計のホテルである。

 メンフィスといえばブルース発祥の地「ビール・ストリート」の名を忘れてはならない。そこにはB.B.キング・ブルース・クラブほか一流のライブハウスが揃っている筈だ。今夜はそこへ繰り出したい。

 しかしまずいことに、朝からの喉の痛みは益々ひどくなり寒気もしてきた。折角メンフィスまで来たのに、エルビスの墓参りだけで、生のメンフィス・サウンドを聴けないとは何とも残念だが、今夜は早く休むしかなさそうだ。ルームサービスに注文した熱いポタージュと野菜ピザで独りさびしく夕食を終え、早目にベッドにもぐり込んだ。


10月12日(火)ニューオリンズへ

 朝、空港送りのバスが時間になってもさっぱり来ない。バスが来たらさっと出発できるよう、各自スーツケースを携え、小学生のようにホテル玄関に並び、首を長くして待つ。ガイドがあちこち連絡した結果分ったことは、担当の運転手が朝寝坊したという誠に単純な事実だった。いまさら代車を配車しても間に合わない。今日はニューオリンズまで移動する日。国内の移動なので、万一遅れても国内線には次の便もあるから心配ない。しかし、貴重な旅の時間を無駄にしないためにも、出来る事なら予定の便に乗りたい。

 そこで、タクシー数台に分乗して空港まで飛ばすことにした。結果、何とか予約通り9時半の便に乗ることができた。時には、こういう予定外のことが起きるのも、旅の“スパイス”になる。

 1時間15分のフライトでニューオリンズ到着。さすがジャズの町だ。ここの空港は偉大なるジャズマンを称えて、2001年にルイ・アームストロング空港と命名された。寒冷前線が近づいているとかで、空港の外に出ると外気は19度と南国にしては寒い。ハリケーンがかすめた後気温が上がり、昨日までは30度以上あったというから、天候によって寒暖の差が激しい土地柄らしい。

 人口50万、あらゆる国の文化が混じりあい、融けあう街がニューオリンズである。現在、79カ国の人々が住んでいますとガイド嬢が云った。日本人は少なく300人足らずだそうだ。アジア系ではインド人、中国人、韓国人が多い。

 有名なオイスターやナマズやワニをはじめ新鮮な魚介類に恵まれ、野性的なケイジャン料理、やや都会的なクレオール料理をはじめ、多様な食文化が楽しめる街でもある。現在、肥満が国家的大問題になってしまったアメリカだが、なかでもここルイジアナ州は全米で肥満率トップ、従って、ニューオリンズが米国で一番デブの多い都市である。うまい物が沢山あり過ぎるのだろう。

 迎えのバスは空港を出ると直接フレンチ・クオーターへ向かい、バーボン通りの西端にあるレッド・フィッシュ・グリルという店で昼食となった。
鰐のソーセージ入り海鮮ガンボ・スープ。小海老、きのこ、玉葱、ピーマン、トマトのたっぷり入ったシュリンプ・クレオール・フェトチーネ。デザートはネーブルの砂糖煮を乗せたクレオール・チーズケーキ。全体にこってり味で、日本人の口には少し重いが、味は悪くない。目鼻立ちが人形のように整った黒人ウエイトレスが可愛らしい。彼女はこの土地の複雑に混じりあったDNAが作りあげた美形に違いない。


フレンチクオーターの午後

 食後はアイアン・レースで飾られたバルコニーが連なる南欧風の町並みを楽しみながらフレンチクオーターを散策。バーボン通りからジャクソン広場に向かう途中、市のランドマーク「プリザベーション・ホール」を発見。話には聞いていたが、とんでもなくオンボロの小屋だ。これでは物置小屋と間違えて通り過ぎてしまう。ニューオリンズ・ジャズのルーツを訪ねて、今夜は絶対ここに来よう。

 ジャクソン広場に出る。セントルイス大聖堂のきりっと引き締ったシルエットが、広場全体に気品を与えている。聖堂の前ではストリート・ミュージシャンが熱演中だ。ひとりはトロンボーン、もう一人はバンジョー。やがて、いつの日か彼等も大ステージに立つ日が来るのだろうか。聖堂の石段に腰を下ろし、しばし彼等の熱演に耳を傾ける。慌しい旅だが、午後の穏やかな陽射しの中で、いま将に至福のひと時が流れて行く。

 広場のフェンスに沿った木蔭では油絵を並べて売っていて、パリのモンマルトルの一隅を髣髴させる。昔は美人だったに違いない品の良い老女が、ジャズメンを描いた150ドルの1枚をしきりに私に勧める。明日また必ず来るからと嘘の約束をして別れた。

 純白のウエディング・ドレスの美女が、広場の鉄柵に寄りかかり、プロらしきカメラマンに写真を撮ってもらっている。花婿は見えない。訊ねると、明日いよいよ結婚するので、その前に独りだけの記念写真を残したいのだそうだ。どうぞお幸せに。彼女が手に持った真紅のブーケが印象的だった。

 迎えに来たバスに乗り、ここから少し北のCBD(中央ビジネス地区)にあるハイアット・ホテルにチェックインした。CBDはニューオリンズでも背広とネクタイの似合う地区だ。ホテルの隣にはNFLセインツで有名なルイジアナ・スーパードームの巨大な丸屋根が見える。あれは収容87500人、世界最大のドームだそうだ。


夜のフレンチクオーター

 ホテルとダウンタウンを結んでいるシャトルバスを利用して夕食に出掛ける。バーボン通りにあるFELIXというクレオールと海鮮料理の店に陣取り、早速、生ガキを注文。12個で6ドル50セントという安さにびっくり。レモンをたっぷり絞り、西洋ワサビを乗せて頬張る。ケチャップは使わない。美味い。お代わりして結局2ダースを平らげた。最後は辛味のきいたルイジアナ風炊込み御飯ジャンバラヤで胃袋に蓋をして夕食は無事完了した。

 食後はフレンチ・クオーターの東の外れにあるSNUG HARBORというクラブを覗いた。店の名前が洒落ている。直訳すれば、こじんまりと心地良い港。演歌風に訳せば、「風待ち港」と云ったところか。モダンジャズとブルースで有名な店らしい。あの名トランペッター、ウイントン・マルサリスの父親でジャズピアニストのエリス・マルサリスがレギュラー出演している店だそうだ。名前の通り一階二階合わせて収容100名弱のこじんまりしたクラブだが、席は8割方埋っていた。カバーチャージは12ドル。今夜の出演はモーリス・ブラウンといういま売出し中のトランペッター。都会的な鋭い音だが少し神経質すぎる。スイングしない演奏なので、次第に体が硬くなって疲れてきた。二階席から下を見ると、同僚のI氏が今にも椅子から転げんばかりに船を漕いでいる。そろそろ旅の疲れが出てきたのだろう。それにしても、この音量の中で船を漕ぐとは日本男子も大したものだ。

 スナッグ・ハーバーの前で皆で記念撮影した後、夜更かしに強い悪童ならぬ悪じじいの4人組で、ニューオリンズ・ジャズのシンボル「プリザベーション・ホール」へ急いだ。

 フレンチクオーターとは東西1200m南北600m、旧市街の中核を占める長方形のエリアだが、プリザベーション・ホールはほぼその中央のピータース通りに在る。昼間の散歩で前を通ったので見当は付いている。1817年に建てられた古い木造の画廊を再利用して、1961年にオープンしたというこの店は、ニューオリンズ・ジャズの伝統を守ることを第一目的にしている。しかし、その小屋のオンボロ加減には本当にびっくりだ。昼間よりまた一段と黒ずんで見え、まるで幽霊屋敷である。

 入場料5ドルを払って中に入る。薄暗いホールの壁には、絵が2〜3枚架かっているが、完全に煤けていて何の絵かは分らない。190年前の画廊の当時からずっとそのままなのだろうか。壁際にくたびれた木のベンチが数台あるが、客の大半は板張りの床にじかに座るか立ったまま開演を待っている。収容100名弱、ステージも無い。スポットライトもない。食べ物や飲物も一切売らない。

 平均年齢は相当高いと思われる黒人プレーヤーが6人、生きた化石のように現れると、やがて演奏が始まった。スウィングからデキシー、そしてラグタイムと、ジャズのルーツを遡って行くその演奏は、けだるく暖かくそしてペーソスに溢れ、涙が出るほど懐かしい。

 2ドル払えばリクエストも気軽に受けてくれる。ただ「聖者が町にやって来る」だけは10ドル下さいという札が壁に貼ってあった。毎晩、この曲を何度となくリクエストされるので、本当はもう10ドル貰っても弾きたくないそうだ。

 オールド・ジャズメンの燻し銀のような職人芸に、夜が更けるのを忘れてしまった。やはり、ニューオリンズは帰りたくなくなる町である。

 ホテルに戻っても興奮冷めやらず、ロビー奥のバーで余韻を楽しみながら寝酒を飲む。バーテンがおでこに大きなバンドエイドを貼っているのがおかしくて冷やかすと、愛犬と散歩中に強く引っ張られて転んだとのこと。「ドレスを着たメス犬じゃないの?」とからかうと、ニタリと笑った。悪酔いしないうちにもう休もう。


10月13日(水) 市内観光あちこち

 快晴、今朝の気温は17度。少し肌寒いくらいだが、空気は適度な湿気を含んで実に快適だ。ニューオリンズの蒸し暑さは耐えがたいと聞いて来たが、南太平洋の島々の蒸し暑さに馴れた私の体には、ここの湿度はむしろ程良い感じだ。この町では、朝の寝起きにシャンパンをオレンジジュースで割ったミモザを飲む人が多い、と朝食のウエイトレスが云っていたが、それはきっと二日酔いの人がそれだけ多くて、迎え酒が必要ということだろう。昨夜遅くまで飲んだ割には気分爽快。今朝の私にミモザはいらない。

 市内観光の最初は先ずセントルイス墓地を訪ねた。屋根にマリアや聖者の像を飾り、まるで一戸建てのように豪奢な墓が並んでいる。南にミシシッピー北にポンチャートレイン湖と、ニューオリンズは周囲を水に囲まれた町だ。しかも、殆どの土地が河や湖の水位より低いため、町は平均7mの堤防で囲まれている。万一、氾濫でも起きれば、町全体が水に浸かる危険を孕んだ町である。

 そういう土地柄では、普通の方法で棺を地下に埋葬しても、地下水の水圧で棺はやがて浮き上がってしまう。そのためここでは地上に家を造り、その中に柩を安置する方法が生まれた。ヨーロッパ貴族の血をひくクレオール系カトリック信者の墓が主だが、信心深くて見栄っ張りな南部人のこと、ギリシャ神殿や宮殿を模した派手な墓を建て、互いに競い合うようになったそうだ。

 墓地が観光スポットになるのも珍しいことだが、昔から「葬送の文化」が根付くこの町では、低地独特の墓地のスタイルも誠にユニークである。

 市の北側、ポンチャートレイン湖の湖畔に広がる市民公園を訪ねる。ここはクリスマス・リースなどに使うスパニッシュ・モスの繁殖で有名だ。園内案内図で見ると、美術館、植物園、遊園地、乗馬、テニスコート40面、ゴルフ場など、羨ましいほどゆったりした市民の憩いの場が広がっている。

 緑灰色のスパニッシュ・モスは、丁度、大きな真綿の塊をぶら下げたように、木々の枝に纏わり付いている。珍しいが、寄生された木々の健康にとってはいい迷惑だろう。暗くなると、ぶら下がったモスが幽霊のように見えて気味が悪いそうだ。


ジャズが生まれた公園

 市民公園の売店に立ち寄って記念の小物を買ったりした後、ベイズン・ストリートを抜けてルイ・アームストロング公園に向かった。

 フレンチクオーターの北側に隣接するこの公園は、ニューオリンズで最も危険な場所と云われる。ゲイの多いこの町だが、ここでは男性が男性にレイプされる事件が後を絶たないらしい。

 しかし、この公園内にあるコンゴ広場こそが、ジャズ発祥の原点である。
19世紀後半、丁度、日本の明治初期の頃だが、黒人奴隷たちは日曜の午後だけはこのコンゴ広場に集まり、ドラムを叩いて踊ることを許された。彼等のアフリカ音楽は、リズムだけでなく、ハーモニーやメロディーまで打楽器で叩き出してしまう独特のものだった。

 やがてそれは、ミシシッピー流域の黒人奴隷から生まれたブルースやソール、古いアメリカ民謡などと融合し、賛美歌や行進曲なども取り入れて、ラグタイム・バンドに発展して行く。これぞまさにJAZZの誕生である。

 黒人が神に祈ったゴスペルが、教会音楽として発展したのとは逆に、ジャズはやがて歓楽街に浸透し、また冠婚葬祭の音楽として市民の間に広まって行った。葬列にブラスバンドが入って陽気に行進したり、ニューオリンズでは今でもその伝統が受け継がれている。

 我々は明るい昼間のグループ行動だが、あまりジャズの歴史に思いを馳せてロマンチックになっていると、よからぬ輩が出てきて、木蔭に引きずりこまれ貞操の危機にならないとも限らない。現に今年もこの銅像の傍から消えてしまった男性観光客がいたそうだ。油断は禁物である。右手にハンカチ、左手にコルネットを持って立つルイ・アームストロングの大きな銅像の前で、全員の記念撮影を済ませ、次の目的地、外輪船の桟橋へ急いだ。

 桟橋に向かう途中、ガイドさんから聞いた話:
――毎年2月に催されるマルディグラ(肉食の火曜日)の大パレードは、世界三大祭りの一つで、リオのカーニバルを凌ぐ騒ぎとなる。
――数年前ゲイの大会が開かれた時は、バーボン・ストリートをゲイが裸で大行進し、その異様な光景は社会問題になった。
――ここには和食・寿司の店も多く、200軒近くあるが、日本人が経営しているのは「将軍」と「堀の家」の二軒だけで、中には国籍不明の和食もある。最近、クランチ・ロールという奇妙な寿司が流行っている。それは天カスを海苔で巻いたもので、ビールのツマミには合うらしい。
――日本語補習校の生徒は現在26名で、週3時間だけだが、毎週土曜日に日本語を勉強している。


外輪蒸気船ナッチェス号

 ジャクソン広場近くの船着場に到着。外輪船「ナッチェス号」でランチタイム・クルーズに出た。長さ81m、1600名収容のこの船は本物の外輪蒸気船である。船尾では巨大な水車がしぶきを上げて回っている。船内はアメリカはもちろん世界中からのオノボリさんで満杯。やはり外輪船に乗らないと、ミシシッピー流域で遊んだことにはならない。今日は快晴、微風、絶好のクルーズ日和である。

 船上のビュフェ・ランチは、例によって胸焼けするような脂物ばかりだったが、アメリカ人は全くよく食べる。甲板のイスにどっかと座って、むしゃむしゃやっている人の九割が肥満体だ。連邦政府が肥満を国民的大問題として取り上げているが、もう手遅れではないだろうか。私の斜め前のご夫人は、横幅1mくらいの偉大なお尻がイスにがっちり嵌まってしまい、立ち上がろうとすると、イスまでお尻にくっついて持ち上がってしまう。もう末期的症状だ。

 最近、便座の輪を通常の倍くらいに巾広くしたビッグ・ジョンという新トイレが、隠れたヒット商品になっているそうだが、便座を大きくするより、ヒップを小さくする方が先である。

 先程のご夫人のダンナとおぼしき男性が、彼女のテーブルまで皿一杯の食べ物を運んでいる。あれではまた肥ってしまう。まだ若いのに、夜の生活などはどうしているのだろう。余計なお世話かも知れないが、気になって仕方がなかった。

 ニューオリンズ港を左に見ながら船はゆっくりと河を下って行く。船内でジャズの生演奏もあると聞いたが、この際は甲板でのんびりと川風に吹かれる方が、あのトム・ソーヤー時代の気分に浸れるというものだ。

 船はジャクソン将軍がカリブの海賊ラフィットの助けを借りて、イギリス艦隊を打ち破ったという古戦場の辺りまで下り、再びゆっくりと戻ってきた。わずか2時間の船旅だったが、悠々と川面をすべる蒸気船の旅はそこはかとなく旅愁を誘い、昔ながらのスローライフの良さを改めて感じさせてくれた。


自由時間に歩く

 ナッチェス号から下船したところで団体行動は終わり、待望の自由行動となった。先ず、仲間と連れ立って、セントルイス大聖堂横の旧市庁舎カビルドまでナポレオンのデスマスクをこの眼で確かめに行く。想像していたよりおでこは広くなく、きりりと引き締った美男子である。1803年にルイジアナをアメリカに売り渡したのはナポレオンだが、彼は生前一度はルイジアナを訪れたいと望みながら、遂にそれは果せなかったそうだ。

 次は、有名なオープン・カフェのカフェ・デュ・モンドへ。お目当ては名物チコリ入りカフェオレと四角い揚げドーナツのベニエ。130年前から、同じように同じ物を売っていて常に満員の店である。しかも、24時間営業だというから驚きだ。ベニエは先ず口に入れるとシャリッとして、最後はクチッと餅を噛み切るような粘りをみせる不思議なドーナツだ。真っ白な粉砂糖をかけて食べる。これを食べなければ、ニューオリンズに来たことにならないと云う伝説が確立しているのだから幸せな店である。ウエイトレスも疲れていて態度は素気ないが、次からつぎへ客が入ってくる。やはり名物は強い。

 次は、河沿いに連なるフレンチ・マーケット、ファーマーズ・マーケット、フリー・マーケットを覗く。200年の歴史を誇るアメリカ最古の市場だが、観光客用になり過ぎて泥臭さが失われ、あまり魅力は感じなかった。

 次は、マーケットから直ぐの旧造幣局へ。昔の造幣局が今はルイジアナ州立博物館として運営されているが、実体はジャズの博物館である。この街から世界へ広がっていった音楽の歴史が、写真などで要領よく展示されている。サッチモが愛用したコルネットやトランペットも静かに飾られていた。


欲望という名の電車

 ラーメンの赤いキツネと緑のタヌキではないが、この街には赤い市電と緑の市電が走っている。赤い市電はミシシッピー河の堤防に沿って走るリバーフロント線。一方、緑の市電はキャナル通りを起点に豪邸が建ち並ぶアップタウンを循環しているセントチャールズ線である。両者とも1920年代に製造された古い車輌を現在も使っていて、そのレトロな姿がこの街にはよく似合う。

 あのテネシー・ウイリアムズの戯曲「欲望という名の電車」のそれも、1940年当時ロイアル通りを走っていた緑の市電だった。その路線はその後バスに代わったが、当時と同じ緑の車輌は今もセントチャールズ線で使われている。

 我々も「欲望という名の電車」に乗ってみようという欲望に動かされ、フレンチ・マーケットの脇から赤い市電に乗って出かけた。

 黒人運転手が停留所名を怒鳴る。降りる客は窓に沿って張られている細い紐を引っ張って知らせる。キャナル駅で降り、キャナル通りを少し北へ歩くと緑の市電の停留所を見つけた。

 緑のチンチン電車、セントチャールス線は、いかにも南部らしい豪邸が建ち並ぶアップタウンをガタゴトと一直線に走って行く。映画「風と共に去りぬ」に出てくるような豪邸がずらりと並ぶ様は壮観だ。軌道の両側には樫の並木が鬱蒼と繁り、都会に居ることを忘れさせてくれる。乗客には観光客も多いが、市民も便利な足として使っている様子だ。木製の座席の固さが次第にビテイ骨に響いてきたが、このノスタルジック・ライドはなかなか楽しく、テネシー・ウイリアムズに義理も果せた。

 終点のキャナル・ストリートで降りると、その足で夕闇迫るフレンチクオーターへ急いだ。今夜はニューオリンズ最後の夜である。


バーボン・ストリート

 南欧風のレトロな街灯に灯が入り、フレンチクオーターはすでに昼から夜の顔に変っていた。バーボン・ストリートを中心に、酒と音楽三昧の夜が始まる。デキシー、スウィング、ラグタイム、R&B、ロック、レゲエ、ソウル、モダン、ハードコア、テクノ、クール、ザイデコ、ケイジャン。あらゆるジャンルの音が、あの通りこの路地、あの店このクラブから思い思いに湧き上がり、口笛と拍手と歓声、それにグラスの音が混じり合ってストリートに溢れ出す。もうこうなるとじっとしては居られない。

 先ずは手初めにデキシーランドのライブハウス「メゾン・バーボン」にしけ込んだ。カバーチャージ無し。ワンドリンクの5ドルだけで好きなだけ粘れる。ここも古いジャズの伝統を頑なに守っている店の一つだそうだ。昨夜、東海岸の演奏旅行から帰ったばかりという専属バンドの、スウィンギングな演奏に体を乗せていると昼の疲れもほぐれてきた。

 裏通りに入り込み、ちょっとシックなレストランを見つけて腹ごしらえを済ませ、再度バーボン・ストリートにもどる。
街角には客引きのオニイさんや、色目を使うオネエさん達が増えてきた。ストリップ小屋からは卑猥な歓声と口笛が聞こえ、通りを行く男達の気をそそる。小泉八雲が日本に来る前、新聞記者時代に住んでいた家も、今はストリップ小屋になっている。どこの店も窓や扉が大きく開いているので、軒先に佇んでタダ聴き専門のハシゴ客も多い。

 今朝ホテルのエレベーターで会った黒人紳士は、全米の通信企業のコンベンションでやってきて、4200人の仲間と今夜はフレンチクオーターだと嬉しそうだった。コンベンションというお祭り騒ぎでここに集まる人の数も半端ではなさそうだ。

 夜が更けるとともに、街は益々人であふれ、喧騒と猥雑さを増し、まるでストリート自体がディスコ・フロアーのように人で埋ってしまった。ここはまさに世界に冠たる歓楽街である。


アメリカ最古のBARで

 宵っ張りの4人組が協議一決、ニューオリンズの夜の仕上げは、1806年の開業以来、200年の伝統を誇るアメリカ最古のBARでということになった。

 オールド・アブサン・ハウス。その昔、スイスのヴァルドトラベールという小さな村で生まれた強い酒がアブサン。ヨモギなど数種類の薬草のエキスが混じっている。アルコール度数は60度もある。飲み過ぎると腰がぬけたり幻覚症状が出る。今から200年前、アブサンをヨーロッパから持ち込みここにBARを開いたのはスペイン人らしい。後に大統領になったジャクソン将軍と海賊ラフィットが、イギリス艦隊迎撃作戦を練ったのもこの店だという伝説がある。

 何かの都合で移動したらしく、店は同じバーボン通りだが昔の場所から数十メートル東に移っていた。天井の高い四角い店で照明は相当暗い。店の真中にコの字のカウンター、三方の壁に沿って立飲みスタンド風の粗末なテーブルが数卓。少しも気取らない店で、スニーカーに短パンの客もいる。店内は超満員。大声を出さないと話もできない。壁面は世界中から来店した客の名刺で埋め尽くされている。これがこの店の伝統だが、新しく名刺を貼るスペースはもう無くなりそうだ。

 良く見ると、凡そ何の変哲もない素朴で薄暗いBARである。別にあの危ないアブサンばかり売っているわけではない。飲み助どもが楽しくなるような空気が店内には満ちみちている。この雰囲気が気に入った。サービス業で雰囲気ほど強いものはない。

 暗闇の中でも、バーテンやカクテル・ウエイトレスの動きは素早く実に的確だ。一晩にチップもさぞ沢山入ることだろうが、忙しさに鍛えられた彼等はみなプロである。いろんなところからやって来るいろんな客を、狭い店内で仲よく飲ませ、ひと声かけて、客同志が仲間になれるようそれとなく助けている。 フレンチクオーターの夜は長い。だが明日はニューヨーク行き。朝が早い。名残惜しいがそろそろ引き揚げねばなるまい。ニューオリンズの夜の締め括りに、オールド・アブサン・ハウスを選んだことは間違いではなかった。


10月14日(木)インテリとカウボーイ

 眠い目を擦りながら、7時過ぎにはホテルを出発、ルイ・アームストロング空港へ向かう。空港に自分の名前が付けられたのだから、サッチモもさぞかし天国でご機嫌だろう。

 9時過ぎのNW1036便で出発、2時間半ほどで乗継地のデトロイト空港に到着。時差が1時間あるので、ゲイトの時計はすでに12時半を指している。待合室の大型スクリーンでは、ブッシュとケリーの大統領選ディベートの真っ最中だ。隣の中年夫婦に訊ねた。ご主人はケリーが優勢だろうと笑う。奥方はブッシュ支持。若者が毎日死んで行くのは辛いけど、今更後には戻れない、強気で行くしかない。ケリーは暗いし頼りないと奥方はおっしゃった。中年女性はケリー支持かと思ったが、そうでもないらしい。やはり暗いインテリ男より気持が直ぐ顔に出て分り易いカウボーイの方がアメリカでは受けるのかも。

 ニューオリンズでも、ホテルのメイドやジャニターなど、いわば社会の底辺で働いている人達にはケリー支持が多かった。しかし、幼い時から一旦事あれば星条旗のもとに結集するように教育されているアメリカ人。まして保守派の多いミッド・ウエストでは、この奥方のような意見が普通なのかも知れない。いずれにしろ、日を追って両者の戦いは大接戦になっている。

 デトロイトから再に2時間弱のフライトでニューヨーク・ラガーディア空港着。時刻はすでに午後3時半を廻っている。やはりアメリカは広い。


ブロードウエイ・ミュージカル

 ホテルは6番街54丁目のヒルトン・タワーにチェックイン。出入りには便利な場所だ。シャワーを浴びると直ぐ、近くの55丁目角を曲がったところにある山王飯店で夕食となった。今夜はミュージカルに行くことになっている。夜の冷気に備えて熱燗の紹興酒を注文する。何か屁理屈をつけて飲むと、酒の味はそれだけ良くなるから不思議だ。料理は一品平均10ドル。平凡な味の割りには値段は安くない。

 久しぶりのニューヨーク。おのぼりさんよろしくブロードウエイを歩く。ラフな服装の多かった南部とちがい、道行く人達がぐっとドレスアップしているように感じる。そして、皆さん歩くのが速い。

 49丁目のアンバサダー劇場でミュージカル“CHICAGO”鑑賞。つい先ほど地元業者に予約を頼んだものだが、チケット代は普通席で115ドル。私の席は1階の最後列、ミキシング・ルームの壁に接して埃臭くて狭苦しい。そのうち紹興酒が旅の疲れを引き出したのか、猛然と睡魔が襲ってきた。何かしないとどうにもならないほど眠い。

 写真撮影禁止であることは知っていたが、最後列だし見張りは居ない。音楽よりも出演者の鍛えられた肉体の方が立派なので、フラッシュをオフにし、デジカメを精一杯ズームにしてそっとステージを狙った。
スロー・シャッターを押そうとした瞬間、後ろから肩に何かが触れた。それは暗闇からヌッと伸びてきた黒人係員の手だった。一体彼はどこに潜んでいたのだろう。周囲は暗いし彼は黒いし全然気が付かなかった。もしシャッターを切っていたら、写真を消去するだけで済んだのか、それとも一晩暗い所に入れられたか、それは知る由もない。

 まあ、お蔭でいっとき目は覚めたが、結局はまた居眠りとなり、私の“CHICAGO”観賞は夢うつつのうちに終わってしまった。


命の水を置いて下さい

 ホテルの近くのコンビニで、隣のニュージャージー産の新鮮なブルーベリーとミネラル・ウオーターを2本買う。ニューヨークの消費税は現在8.625%である。ブルーベリーはビタミンCの補給、そしてついでに目の疲れも癒す。ミネラル・ウオーターは今夜から明日にかけての命の水である。

 最近の傾向として、いわゆるミニバーを廃止し、客室には備品として空の冷蔵庫だけ置いているホテルが増えた。都市はもちろんリゾート地でも、ホテルの周辺にコンビニやスーパーが増え、お客は何でも外で買って持ち込めるようになった。また、それと共に自分が買ってきた品物を冷やすために、ミニバーの商品を一時的に外に取出してしまうチャッカリ屋も増えた。そんな事でミニバーは管理が面倒な割りには利益を生まなくなり、廃止するホテルが増えたのだと思う。

 理由は分かるのだが、せめてミネラル・ウオーターの2本程度は無料で冷蔵庫に入れて置いて欲しい。コストは室料等でカバーすれば簡単に出来る筈である。深夜にチェックインした時など、安心して飲める水が部屋にないと非常に困る。これは人道問題だ。

 ヒルトンでも既にミニバーはなく、部屋には空っぽの冷蔵庫だけが置かれていた。そして、ドレッシング・テーブルの上には、ミネラル・ウオーターが1本置いてあり、「どうぞご利用くださいー料金5ドル」となっている。悪気は無いのだろうが、この5ドルは高すぎる。深夜にチェックインして喉が渇いていれば、仕方なく飲むだろうが、何だか客の足元をみているようで感じが悪い。 コストは何かでカバーするとして、「どうぞお使い下さい、無料です」と謳った方が、心理的にもずっとスマートだ。

結局、私も5ドルのボトルには手を出さず、重いけれどコンビニから安いのを買って来てしまった。


10月15日(金)自由行動の一日

 妙な味噌汁しかなかった南部のホテルにくらべ、ヒルトンの朝食ビュッフェは和食コナーが格段に充実している。生タマゴ、納豆、海苔、梅干、冷奴、塩鮭、お新香、そしてホウレン草のおひたしまで出ている。私の前に並んだ白人の老夫婦が納豆のパックを手に取った。隣に住む日本人の奥さんに無理やり勧められて好きになったそうだ。
「デンバーから時折り出てくるが、ニューヨークの納豆は新鮮でおいしい」とのたまう。納豆の国際化だ。

 本格的和朝食をゆっくり味わいたいところだが、今日は貴重な自由行動の日、数人の仲間がすでにロビーで待っている。近くのMOMA近代美術館は只今休館中なので、メトロポリタン美術館へ行く約束をした。
べっとり糸を引く納豆メシを慌てて頬張る私を見て、隣のテーブルのラテン系の姉妹が目を点にしている。まるで宇宙人でも見るような目付きだ。やはり納豆の国際化はまだまだか。

 朝の散歩がてらにセントラル・パークまで歩く。あちこちのビルの軒下では、ホームレスが昨夜のダンボールのねぐらを畳んでいる。路地の角々には凄い量のゴミ袋が積まれている。超高層ジャングルのマンハッタンは、いったい一晩にどれだけのゴミを吐き出すのだろう。

 東京ドームの72倍の広さだというセントラル・パークに入る。木々はすでに色ずき始め、大銀杏の黄色がひときわ鮮やかだ。動物園の脇をぬけてメトロポリタン美術館へ急ぐ。3時間後に正面入口で落合うことを約束して、各自館内へ散った。

 先ずは親しみやすいマネ、モネ、ドガ、セザンヌ、ピサロ、ゴッホ、ルノアールなど、2階の19世紀西洋絵画と彫刻の部屋へ。高さ1メートル程のドガのブロンズ彫刻「踊り子」が妙に印象に残った。中二階のモダンアート、1階のギリシャ彫刻の回廊などをうろついて、あっという間に3時間は過ぎた。館内で、先生に引率された小学生のグループに幾つか出合ったが、身近にこういう素晴らしい美術館を持つ彼等は本当に幸せだ。こちらは1ヶ月通い詰めても足りないという美術館に、3時間ではどうにもならない。

 美術館を出ると外は小雨がちらついていた。78丁目のオーシャン・グリルというレストランに飛び込んでランチ。シーフッド・チャウダー、帆立のグリル、ほうれん草と茸のサラダ。店の内装も落ち着いているし、メニューも健康的だし盛付けもお洒落だ。だが、食べてびっくり、全てが塩辛くて閉口した。キリンの生をジョッキでがぶ飲みして、体内の塩分の調節に励んだ。

 それにしても、周囲の白人客たちが同じメニューを平然と食べていたのは不思議だ。生ビールをどんどん飲ますために、我々にだけ塩をたっぷり入れてくれたのかしら。まさか。


グラウンド・ゼロを訪ねる

 食後は、全線2ドルの地下鉄に乗って、いまや観光名所となったグラウンド・ゼロを訪ねた。地下鉄は確かに以前よりずっと清潔・安全になったようだ。

 頑丈な鉄枠と金網フェンスに囲まれたグラウンド・ゼロでは、すでに再開発の資材搬入も始まり、無機質な資材置場といった感じだ。フェンス越しに全域を見下ろしても、もはや特別な感情は湧いてこない。
元来グラウンド・ゼロとは、原爆実験の跡地や、広島・長崎のように、原爆で全てが壊滅してしまった地表を表現した言葉である。

 全てが崩れ落ちたあの9・11の跡地をグラウンド・ゼロと呼ぶのは、それだけアメリカ人のショックが大きく、思い入れが深い証拠だろう。

 しかし、21万数千人、実に9・11の75倍の民間人の命を一瞬にして奪った広島・長崎や、逃げ惑う10数万の市民が一夜にして焼け死んだ東京大空襲などを思うと、ワールド・トレード・センター跡地をグラウンド・ゼロなどと呼ぶのは、アメリカ的身勝手が過ぎるような気がしてならない。

 逆に云えば、その身勝手さが9・11の悲劇を生んだ遠因でもあり、それ以後も、京都議定書問題など、地球全体を息苦しくしているのではないか。小雨の中、地下鉄駅に戻る足取りはいささか重かった。

 夜は市内に住む大学の同窓と懇親パーティーを開いた。場所は56丁目の五番街寄りにある「黄色い花」というレストラン。東京の母校も現在は学生の半数以上が女性になった。懇親会の方もそういう時代を反映してか、男性より若い女性の出席者が多く、ウーマン・パワーの台頭を改めて感じた。彼女たちは皆それぞれにニューヨークでの生活を逞しくエンジョイしている様子だ。

 それに引き換え、男性軍は失礼ながら少しお疲れ気味とお見受けした。各企業とも支店の人員を減らされ、仕事が過重になっている人が多いのだろう。


ニューヨークのジャズ

 懇親会お開きの後、ジャズ好きの4人が集まり、「ブルーノート」へ行こうということになった。電話してみると、10時半のステージには若干のゆとりがあるので、早く来て並べば大丈夫だろうとのこと。
小雨の中をタクシーで出かけた。金曜日の夜、しかも雨で道路は渋滞気味だが、焦っても仕方がない。助手席の私は運転手に話しかけた。
「2週間後の大統領選、どっちに入れるの?」
「もちろんケリーさ。ブッシュは戦争好きで強引だから好かんよ」
バングラディシュ出身の彼は、在米13年目の昨年やっと市民権が取れ、大統領選挙は今回が初めてだそうだ。話好きの彼が云った:
「これからの世界は、アメリカ、EU,アジアの三つのエリアの競争だ。日本にはアジアのリーダーとして、リーダーシップをもっと発揮してもらいたいね。中国、インドは益々経済大国になってきたし、彼等はすでに核武装もしている。北朝鮮、韓国だって核を持っているに違いない。そんな中でアジアのリーダーとして動くには、日本も核武装を急ぐべきだと思うけど、どうかね」
(母国バングラディシュはこのままだとインドや中国に押し潰されそうだ。日本に牽制役や牽引役を期待したいが、どうも日本は頼りにならない)と彼は言いたいのだろう。ブッシュは好戦的だから嫌いだと云う彼にしては乱暴な意見だ。しかし、日米安保に頼りきり、事態を慎重に見守ってばかりで何もしない日本は、やはり頼りにならないのだろう。私は返事に窮してしまった。

 日本ではフォーク・シンガーのイメージが強い森山良子だが、彼女は本当はジャズを一番歌いたがっている。その彼女が今年の5月ここブルーノートでジャズを歌い大好評を博した。その他日本の新進ジャズ・プレーヤーも最近はちょくちょく出演している。実力さえ認められれば、誰でも出演できる自由の風が「ブルーノート」には吹いている。

 クラブ前の歩道には、開場を待つ客が長蛇の列を作っていた。彼等はすでにチケットは持っているのに、並んで待つことを楽しんでいる様子だ。日本人にはこれが出来ない。我々は当日売りの列に並び、幸い入口脇の最後に残ったテーブルを確保することが出来た。あぶれた人達はバーカウンターの方に誘導されてカウンターも鈴なりになった。超満員である。

 その晩は、ラテンジャズ界のコンガの名手レイ・バレットの75才の誕生日記念コンサートだった。彼の挨拶はいたって間延びしていたが、いったん演奏に入ると、ピアノとベースにボンゴも加え、とても75才とは思えない迫力で音が爆発し客席に迫ってきた。聴衆は体ごとリズムを刻みはじめ、次第にステージと一体化して行く。隣の席のラテン系の若いカップルは、目をつぶり首を揺すって陶酔し、もう惹きつけ寸前まで来ている。 日本のコンサート客のように、周囲に合わせた格好だけの“乗り”ではなく、ひとりひとりが全身全霊で乗っている。

 名前は忘れたが、ステージの後半は、いま売り出し中の若手アルト・サックスとトランペットの競演となった。研ぎ澄まされた音のぶつけ合いに、場内の空気はピンと張りつめ、客席は金縛りになって動かない。切れ味鋭い都会のサウンドである。だが、私は心のどこかであの暖いニューオリンズのジャズを懐かしんでいた。

 今夜は週末のためホテルのロビーバーは遅くまで賑やかだ。我々もジャズ・ライブの興奮さめやらず、負けずに午前1時のラストコールまで飲んだ。明日はもう帰国である。寝る前に荷づくりという仕事が待っているのが辛い。


10月16日(土) 朝の五番街風景

 いささか二日酔いだが、今朝も豆腐の味噌汁と納豆ごはんで一通りの朝食を済ませる。バゲージ・アウトが10時、ホテル出発は11時なので、五番街の方へ散歩に出てみた。戸外はかなり冷え込んで肌寒い。向いのビルの屋上の温度計が摂氏7度を示している。

 黒人男性が二人、大きな風呂敷包みを引きずりながら前を歩いて行く。彼等はグッチのビルの角を曲がり、ビル脇の歩道上で風呂敷包みを広げた。すると、ツーリスト風の白人女性が3人何処からともなく現れ、包みの中味を手に取り何か言葉を交わしている。中味はハンドバッグのようだ。街角に立っていた警官が近寄ってきて何か声をかけた。男たちはおとなしく風呂敷をまとめ通りの向うへ去って行った。

 しばらくウインドウ・ショッピングをし、再び54丁目の角まで戻って来ると、先程の黒人たちがさっきと同じ場所に風呂敷を広げ、観光客に囲まれている。驚いたことに例の女性3人も混じっている。彼女たちは偽ブランド・バッグ屋のサクラ係だったようだ。また警官が現れ、ニヤリとして黒人達に何か話しかけた。すると、彼等は直ぐに店をたたみ、六番街の方へ移動して行った。

 どうも警官と彼等はもう馴れ合いで、イタチごっこを繰り返しているらしい。それにしても、ホンモノの隣でニセモノも売るとは、さすがに五番街は至れり尽くせりである。

 帰り道、食品スーパーに立ち寄り、家内に頼まれた苦味の強いノン・シュガーの板チョコを買い込んでホテルに戻った。


またもやディレーでした

 ホテルを午前11時過ぎに出発しケネディー空港に向かう。搭乗手続きもスムーズに済み、午後2時10分発のNW17便に搭乗を完了した。

 ところが機はさっぱり動き出さない。そのうちアナウンスがあった。
「主翼に小さな油漏れが見つかり、修理を試みましたが、応急修理は不可能と判明しました。誠に申し訳ありませんが、お客さまには一旦お降り頂き、今夕、東京から到着する別の機材に乗換えて頂きます」「出発は今のところ夕方6時を予定しております」

 やれやれである。出発の時もメカのトラブルと台風で大幅ディレーになったが、ご丁寧に帰路もまたディレーとは。お祓いでもして貰わないとこの先も何か起きるかも知れない。我々はぶつぶつ言いながら機を降り、それぞれ夕方までの時間潰しに取り掛かった。

 先程、空港内の自然食品の店で無花果のジャムや南瓜のペーストなど、パン食用の珍しい瓶詰類をつい買ってしまい手荷物が重くなっている。今更こんな重い荷物を下げて空港内をうろつく気にもなれない。私はゲートのイスに凭れて昼寝をすることにした。幸い眠ろうと思えば何処でも眠れるDNAを持っている。

 一方、航空会社から提供された出発遅延用のミール・クーポンを使ってラウンジ・レストランを占拠し、S夫人がお土産に買った筈のバーボンを略奪して回し飲みし、旅の反省会と称して怪気炎を上げた一団もあったと聞いた。この人達はその事に関して反省会をもう一度開く必要がありそうだ。

 7時過ぎ、ニューヨークの空に夜の帳が降りる頃、我々を乗せた代替機は成田に向けてやっと飛び立った。途中、5時間の遅れを取り戻すことはもう無理だろう。

(完)




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