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| 「ロシア旅行・私の二都物語−モスクワとペテルブルグ」 小林正典 |
| 9月/04 |
| 現在ペテルブルグ市には、日本たばこ、日本電気、日立の駐在員を中心に約150人の日本人が住んでいる。その外に、バレー学校で学ぶ日本人留学生が30人ほど居る。絶対数が少ないので、在留日本人会のような組織はまだ結成されていない、と総領事は云っていた。ペテルブルグに関連する難しい外交案件も特に無いし、過日ここでのサミットも無事に終幕した。しかし、今年は300年祭で観光ブームに沸いており、年間300万を超える観光客の中には日本人も多い。また、特に日本人客にはシニアが多いので、病気、怪我、盗難、交通事故など、観光関連の業務もいろいろと大変なことだろう。
総領事館の方々の健闘を祈ると共に、日本から贈る千本の桜が無事に根付き、ネヴァ川の岸に花開く日が来ることを願って乾杯。交歓会はお開きとなった。 9月6日(土)ペトロドヴァレェツの夏の宮殿へ 今朝の空は快晴である。同室のH氏は快晴だと余り嬉しそうな顔をしない。余程北国の雪空が恋しいらしい。朝食のビュッフェに出ていたブルーチーズが気に入って、短冊切りのキュウリに乗せてもりもり食べた。トマトも新鮮でトマト本来の味がする。蜂蜜が天然のハニコムのまま、大きな塊でどかんと出ていて嬉しくなった。ふと見るとノリ巻きが遠慮がちに隅の方に置いてある。試食してみたが、ご飯がべちょべちょで駄目だった。何処で穫れたものか判らないが、コメその物の質が悪いようだ。でも、日本人客のためにノリ巻きを作ってくれたことには感謝しよう。共産時代だったら、そんな事は無かっただろう。 9時頃ホテルを出発。これから有名な「夏の宮殿」見学のため、市の南40キロ、フィンランド湾に面したペトロドヴァレェツの町を訪ねる。舌を噛みそうな名前だが、これは“ピョートルの宮殿”という意味である。ピョートル大帝の「夏の宮殿」が其処に出来てから、町自体が“ピョートルの宮殿”と呼ばれるようになったそうだ。それ以前はペテルホフという御料地の村だった。 例によってガイドの四方山話を聞きながら走る。今日のような好天を小春日和、インディアンサマーと呼ぶが、ロシアでは“おばあさんの夏”と云うそうだ。途中、通勤客を乗せた路面電車が走るのが見えた。ペテルブルグ市では地下鉄も発達し4系統が走っている。郊外に出ると随分賃貸アパートが目立つが、住宅不足のためこの1年で家賃は倍近くに跳ね上がり、月30ドル程度だった家賃が60ドルにまで上がった。公務員や教員の給与は特に安く、月給は平均200ドル程度なので住宅費の高騰は苦しい。ガソリン代は日本の半分だが、給与はまだ日本の10分の1なので、自家用車を持つことも楽ではない。 周囲は次第にロシア特有の雄大で牧歌的な風景に変ってきた。突然、広々とした芝生の丘陵の真中に立派な宮殿が現れた。荒れていた18世紀の宮殿を急遽サミット会議の迎賓館として大改装したもので、名前はコンスタンチン宮殿。しかし、市民は誰もその名前では呼ばず「プーチン宮殿」と呼んでいる。小泉首相もこのプーチン宮殿に泊った。ブッシュ大統領は警備上の問題で納得せず、結局我々が泊っているアングロテーレ・ホテルと軒続きのアストリア・ホテルに宿泊した。プーチン宮殿の周辺に住む市民や農民は、家の窓を開けることを許されず、畑に出ることも禁止されて収穫期を逸し、サミットでは大変な迷惑を蒙った。プーチンが自分の自尊心を満足させる為に、世界のトップを自分の故郷に招いたのだ、と揶揄する市民が多かったそうだ。今度の建都300年祭でも、市民は何かと生活のペースを乱されることが多く迷惑している。また、プーチン大統領が首都をモスクワからペテルブルグに移したがっているという噂に、市民は半ば呆れている。マリーナの話を聞いていると、プーチンの人気にも翳りが見えてきたかに聞こえるが、実際はその逆で、彼は「頼りになる坊や」として、まだまだ国民的人気は高いようだ。 10時に「夏の宮殿」に到着した。フィンランド湾を望むテラス状の300万坪の丘陵地の中心に宮殿は建っており、正面の長さだけで300m以上ある大宮殿である。宮殿が立つテラス状台地の下には、左右七段の大カスケード階段に始まる100以上の噴水と、250の彫像を配置した30万坪の海に面した「下の庭園」が広がっている。宮殿のすぐ下には客人の船が接岸できるように、フィンランド湾から真直ぐに運河が掘られている。また、山に面した宮殿正面入口の側にも、趣向を凝らした「上の庭園」が配置されている。 遥かに海を見下ろすテラス側入口付近に並んで、入場時間が来るのを暫く待っていると、お土産売りの青年達がどこからか押し寄せてきた。みな昔の駅弁売りの要領で品物を肩から懸けている。品物は可愛いマトリョーシカ、スカーフ、バッジなど。最初は躊躇していたが、好男子の口説きに一人のおばさまが落城すると、あとは右へならえとなった。また入口ドア付近には、まるでルイ14世が肖像画から出て来たみたいな、白い長髪のカツラに緑のコートを着込んだ男が3人、管楽器で物欲しそうに日本の小学唱歌を演奏している。ドイツの観光団には勿論ドイツの歌である。 大宮殿の中へ入る。昨日エカテリーナ宮殿を見た後なので、ちょっとやそっとでは驚くまいと思ったが、先ず金箔の華麗な階段にびっくり。入口ドアから覗くことだけを許された眩いばかりの大舞踏会場。12吊りの豪華シャンデリアの「玉座の間」、赤い玉座の上にはエカテリーナ2世即位直後の凛々しい騎馬像が飾られている。18世紀バロック様式を正確に伝える「謁見の間」の机の上には、マイセン王立磁器工場製の手の混んだ人形が並んでいる。「白の食堂」のロングテーブルには、女帝の注文でイギリスの陶芸家ウエッジウッド氏が製作した食器類200ケ程がずらりと並んでいる。「肖像画の部屋」という1室には、エカテリーナ2世が親しかった7人の女友達の肖像画153枚が、壁に隙間なくびっしりと飾られていて、ちょっと異様な雰囲気だ。ペテルブルグ帝室磁器工場製のゴージャスな化粧道具が並んだ化粧室。その隣にはエカテリーナ2世の寝室があった。手の込んだ絹の間仕切りカーテンの奥には、全面金箔で飾られたベッドが納まっている。ベッドの斜め横には白い絹地のクッションを乗せた黄金の椅子が置かれている。マリーナの説明だとあれは単なる椅子ではなく、絹のクッションの下は実はオマルになっているとのこと。つまり、その椅子は女帝の夜のおトイレなのである。私がそこでどうゆう光景を想像したかは置くとして、じっと見詰めていると、この「黄金のオマル」が、まさに帝政ロシアを象徴するシンボルのように思えてきた。その絶対的権力と財力が遂に黄金のオマルに凝縮されたのである。脳裏にうごめくオマルの幻想を断ち切って先へ進むと、隣の部屋の壁に10号くらいの、豊満なおしりをこちらに向けて横たわる裸婦の絵が架かっていた。作者は分らないが、雰囲気のある実に魅力的な絵だ。私はデジカメを30センチまで近づけて、その裸婦の絵をそっと接写した。それでも何ら卑猥な気持にならなかったのは、先程のオマルの椅子と違って、その絵の芸術性が非常に高かったからであろう。樫の板に彫ったレリーフで壁面の全てを飾った“樫材の書斎”は、見事だし珍しかった。しかし、やることが少し極端すぎて、所詮は使うより見せる為の部屋という感じである。 宮殿内の見学を終え、35万坪の庭園を歩く。カスケード階段の下の丸池の中心には、襲いくるライオンの口を裂くサムソンの金色の像が立ち、ライオンの口からは30m近い水しぶきが噴き上がる。飛沫が虹を呼び、金箔で覆われた周囲の彫像群は濡れてキラキラと輝く。手入れの行き届いた幾何学模様の花壇、緑濃い森、どこまでも一直線に延びる並木道、運河に沿って海まで続く小噴水の列、木蔭に憩う古代ギリシャ・ローマの神々の像、イブの噴水、アダムの噴水、太陽の噴水、傘の噴水、人が跨ぐと水が飛び出す悪戯の噴水など、趣向の限りを尽くした大庭園は、北国の小春日和を惜しむかのように光り輝いている。 庭園が海にせり出した一角には、モン・プレジール宮という欧風の小宮殿があった。海辺の大別荘のようなその建物は、ピョートル大帝のお気に入りの館だったようだ。身長2mを超える大男の大帝でも、日頃の生活空間としては、大宮殿よりこの小宮殿の方が居心地が良かったに違いない。ここには大帝の遺品も沢山残されている。庭園内には他に四つの離宮と湯殿なども建っていた。 帰路は、庭園の先に突き出た桟橋からロシアン・クルーズ社の高速船に乗る。船は時速70キロで真っ青なフィンランド湾を突っ切って行く。ペテルブルグのランドマーク、イサク聖堂の黄金の丸屋根が見えて来ると、やがて船はネヴァ川に回り込み、市内エルミタージュ美術館裏の桟橋に接岸した。 エルミタージュ国立美術館へ 昼食の場所は昨夜のM総領事との交歓会と同じアダマンテ・レストランであった。偶然の一致だろうが、領事館と地元の旅行業者がそろって選んだところをみると、このアダマンテという店は評判がいいのだろう。料理もサービスも先ずまずだったが、特に印象に残るものも無かった。時間が貴重なので、昼食後はそそくさとエルミタージュ美術館に向かう。ネヴァ川に面した入口から入る。入館料は外国人が千円弱の250ルーブル、ロシア人15ルーブルである。 ピョートル大帝が1720年に冬宮殿を完成し、美術品のコレクションを始めたことが、この美術館の最初の一歩である。その後、1741年に即位した大帝の娘エリザベータが、ヨーロッパから200点余りの美術品を購入して、宮殿内のエルミタージュ(隠れ家)という小部屋に収蔵した。更にその後、男性を見る眼は兎も角、美術には確かな眼力を持っていたエカテリーナ2世の時代になって、収蔵品は4000点近くにまで増えた。一般には、エカテリーナ2世が改装や増築を行って一挙に展示スペースを拡大した1764年を、この美術館の誕生の年としているらしい。 ヨーロッパに追いつき追い越せの精神で、エカテリーナ2世はベルギーのド・リーニ王子、フランスのクローズ男爵、イギリスのウオーポール卿などの有名コレクションを、権力と財力に任せて次々と買い漁った。宮殿の建築ではベルサイユ宮殿、美術館ではルーブルや大英博物館に負けたくなかった。 この女帝の遺志はその後も受け継がれ、アレキサンドル1世はナポレオンの最初の妻ジョゼフィーヌのコレクションを買収、またニコライ1世はオランダのウイルヘルム2世のコレクションを購入というように、収蔵は増え続ける。 そして遂に、ロマノフ王朝300年の間にエルミタージュ美術館の収蔵総数は300万点にまで達する。1917年の革命を経て、軍事革命委員会がこの300万点の王朝所有の美術品を、国民のための“国立美術館”として再スタートさせ、一般公開への道が初めて開けた。しかしその後も、第1次世界大戦時にはモスクワに疎開移動させたり、第2次大戦では2列車に積込んでウラルまで移動、残りはドイツ軍の900日包囲戦から守るため地下室に隠したりと、収蔵品は幾多の歴史的苦難を乗り越えて今日に到っている。 美術館は冬宮殿を核に、大・小エルミタージュ宮殿と劇場と、4ッの建物を繋いで出来ている。王宮そのものを美術館にしているので、その豪華さは世界に類を見ない。全部で千以上の部屋があり、そのうち約400室が美術品の展示に使われている。建物は全て3階建てで、全部で120ヶ所の階段があり、全ての部屋を横に繋ぐと27キロにもなるという。ここの300万点を1日100点づつ鑑賞したとしても、80年はかかってしまう。いま我々に与えられた時間は、たったの“3時間”である。兎に角、悩んでいても時間はどんどん過ぎて行く。マリーナの案内に従って、いまは“最大効率”の道順を懸命に進むしかない。 先ず、正面階段の超豪華なのにびっくり。典型的なバロック装飾の大階段である。この美術館の外観全体は今でもバロック様式そのものだが、館内は過去300年の間に大火で焼失したり、改装されたりしたため、18世紀ラストレーリが設計した当時のバロックの内装は、極く一部にしか残っていない。大火後に当初のバロック様式に完全に復元されたこの大階段は、その意味では貴重な存在である。2段採光式の「白の広間」を通って、先ず巨大な黄金のシャンデリアに愕く。「1812年戦争の画廊」にはナポレオン軍に勝利したロシア帝国の栄誉を称えて、将軍たちの332枚の肖像画がびっしりと飾られている。その奥の「大玉座の間」では、正面の双頭の鷲の紋章を画いた真紅のタペストリーと黄金の玉座が、真っ白な大理石の円柱列に囲まれて印象的だ。ロマノフ王朝の多くの公式行事が、壮麗なこの大広間で執り行われたらしい。ニコライ1世の息子の結婚式用に作られた「黄金の客間」や、宮殿内で最も優美なインテリアと云われる「ブドア・婦人用の私室」の豪華さは、もう、ここまでやるかと云った感じで、言葉にならない。 公式行事用のスペースを抜けて、2階の19世紀西洋美術の部屋へ急ぐ途中、小エルミタージュ宮の屋上「空中庭園」の横を通過した。植込みの木々の緑を背景に、色とりどりの花が咲き乱れる花壇。花壇の縁には大理石の小さな天使像が点々と配置され、静かな時間が流れている。屋内と違って華美な感じはなく、しっとりと落着いた屋上庭園である。もし許されるなら、あそこで秋の陽を浴びながらゆっくりコーヒーでも飲みたい。 レンブラントの作品が並ぶ数部屋は混んでいた。光と影の魔術師。離れて見ても力強いが、近くでよく見ると細部の描写の見事なこと。特にリネン、絹、ベルベットなど、布地の質感の表現はすごい。ドイツからの観光団も余程レンブラントがお気に入りらしく、真剣な面持ちだ。有名な「放蕩息子の帰還」や「ダナエ」もある。部屋はますます混んできて室温も上がり少し息苦しい。 イタリア芸術の部屋に廻り、ダ・ヴィンチの「リッタの聖母」やラファエロの聖母像などを駆け足で観る。19世紀までの巨匠の絵が並ぶフランス美術の部屋では、農民派の画家ルイ・ルナンの「牛乳売りの家族」が気になる一枚だ。小さな絵なのに人を惹きつける。絵は大きさではないということを実感する。暗い空の下で哀しげに、しかし力強く何かを決意して立つ4人の家族とロバ。不思議な魅力を持つこの絵は、きっと毎日見ていても飽きないだろう。 館内には女帝の肖像画も飾られていた。ピョートル大帝の娘のエリザベータ女帝は凛として、なかなかの美形である。紫色のドレスを着てどっかりと太ったエカテリーナ2世の大肖像画もある。モスクワの武器庫に飾られていた彼女のあの華奢なドレスは一体何だったのだ。威風堂々、中年肥りのその姿に、それまで想像していたイメージは儚くも崩れ去った。 |
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