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「ロシア旅行・私の二都物語−モスクワとペテルブルグ」 小林正典
8月/04

 全然予備知識なしでペテルブルグに乗り込んだので、寝る前にそっとガイドブックを覗いてみた。そして驚いた。フィンランド湾に面した海辺の都市であることは知っていたが、ここはネヴァ川という川の河口デルタに浮かぶ水上都市なのである。支流や運河を含めると、網の目のように65本の川が流れ、100以上の島に分れている。そして623本の橋によってそれらが結ばれている。

 ここが正真正銘の「水の都」であることを再認識し、何だかベッドまで水の上に浮かんでいるような気分になって眠りについた。


9月5日(金)エカテリーナ宮殿へ

 空はどんよりと曇り、霧の朝である。同室のH氏が曇り空を眺めて嬉しそうな顔をしている。ふるさと福井県の冬の空にそっくりなので、懐かしいのだそうだ。南の島から出てきた私は、そんな寒そうな空を鑑賞するより、外の気温の方が気になって仕方がない。モスクワでもそうだったが、毎日気温の変化が激しいので、その日に何を着て出るかが大問題だ。また、今日は暖かいと思っていても、途中、曇ってきて急に気温が下がることがあるので油断出来ない。

 ホテルの直ぐ前に聳える高さ100mのイサック聖堂。その金色の丸屋根も今朝は霧の中で、淡い墨絵のようなシルエットを見せている。気温は比較的暖かく10度である。今日は琥珀の間で有名な「エカテリーナ宮殿」から始めて、市内の主なところを観光する。ガイドはマリーナという40代の感じの良い女性で、昨日のニキビのアンナ嬢と違い、大ベテランのようだ。

 今日は金曜日なので、ダーチャで週末を過ごすため、郊外に向かって走る車が多い。日本人の団体を乗せたバスと停止信号で並んで止まった。見ると皆殆んど眠っている。朝から寝ているということは、余程の強行軍に耐えているのだろう。大和民族、頑張れ。郊外に出るとキャベツ畑が目立つようになった。この辺りの農業は株式会社組織でやっていますとマリーナが云った。

 彼女のエカテリーナ宮殿の説明を聴きながら走る。宮殿はロシア近代化の父ピョートル大帝が愛妻エカテリーナ1世に避暑地として贈った土地の上に計画された。しかし、大帝もエカテリーナ1世も計画半ばで死去。その後曲折を経て、派手好みだった娘のエリザベートが女帝になり、彼女の肝いりで1756年に漸く完成した。時代は丁度日本の江戸中期の頃である。設計は金ピカで奇想絢爛なロシアンバロックの代表的建築家ラストレーリである。余談になるが、ピョートル大帝は狩に出た時にリトアニアの農民の娘を見初め、先妻エヴドキアを修道院へ追いやって、その農民の娘を后に迎えた。それがエカテリーナ1世である。そして、そのまた娘が派手好きな美人独身女帝として、この宮殿を完成させたエリザベートである。そして、女帝エリザベートはやがてドイツから貧しい貴族の娘ソフィーを世継ぎとして迎えることになる。

 ところで、1703年スエーデンの侵攻から国を守るため、モスクワからこの地に移り住み、やがてこの沼地に被われた貧しい魚村にヨーロッパ風の新首都を築いたのがピョートル大帝で、彼はサンクト・ペテルブルグの生みの親と云われる。しかし当時、苛酷な沼地の建設作業に動員されて、死んでいった農奴は数知れなかったため、彼は屍の上に都市を造った皇帝とも云われた。

 一方、ピョートル大帝の娘エリザベート帝が、養女としてドイツから迎えたソフィーは、能無しの夫ピョートル3世が軍のクーデターで退位幽閉され変死したのを機に帝位につき、エカテリーナ2世となった。彼女はロシアを欧州列強と肩を並べる国にまで発展させた才女で、ロシア中興の祖とも云われる。フランスの文化や思想に強い影響を受けた彼女は、派手なロシアンバロック様式は余り好まなかった。従って、宮殿の内部も彼女の好みで後日フレンチ・クラシックに改装したり、増築したりした部分が相当ある。芸術を愛し、姑のエリザベート帝が始めたエルミタージュ美術館の収蔵を、一挙に増やしたのもエカテリーナ2世である。権謀術数によって絶対君主制を確立した彼女は、側近との男性関係も相当派手で子供も作った。宮殿の中には彼女がボーイフレンドから貰ったラブレターを分類保管した書庫も残っている。35年に及ぶ彼女の治世には、内外の賓客がこの宮殿を訪れたが、江戸末期、ロシア北洋の島に漂着した大黒屋光太夫一行が彼女に拝謁し、帰国を嘆願したのも、この宮殿の「絵画の間」である。女帝は「まあ、お可哀相に!」と同情したと歴史は伝えている。

 さて宮殿に到着し、霧に霞むアクセスを歩いて行くと、赤と緑の軍服スタイルの管楽カルテットが、やけに間延びした調子で「君が代」を演奏しはじめた。国歌演奏で歓迎しチップでもせしめようという魂胆らしい。だが、あいにく我々一行には愛国心の強い人が居なくて、彼等の作戦は成功しなかった。

 靴を覆う布のシューズカバーを履かされて宮殿内に入る。シューズカバーは内部を汚さないのと同時に、我々の足で床を磨かせるためだ。ドイツやアメリカからの観光グループも多く、順路に従って各部屋を覗いていくが、大広間に入ると一緒になるので、ドイツ語や英語のガイドに、マリーナの日本語の案内が混じり合ってややこしい。どの部屋も細かい木彫を金張りした装飾の豪華さと、床の寄木細工の見事さに圧倒される。しかし、こんなに飾り立てた空間で、生身の人間が本当に生活していたのだろうか。私生活の場はもっと他にあったのでは、と考えるのは貧乏人の勘ぐりだろうか。17・18世紀の一流画家の絵130枚を隙間無く壁に貼った絵画の間、舞踏の間、鏡の間、赤柱の間、王冠の間、淡い鶯色でまとめた緑の食堂など、夫々の内装は凝りに凝って煌びやかである。反面、幾つかの部屋で晩餐会風にテーブル・セットされていた食器類は、非常に上品で洗練されていた。あれはきっとエカテリーナ2世の好みだろう。シャコ貝の中で天使が眠る白い大理石の彫刻が、正面階段の踊り場にぽつんと置かれていたが、金ピカばかり見てきた目に、はっとする程新鮮に映った。

 ところで、話題の「琥珀の間」はやはり独特だった。よくもこんなに大きな部屋の壁を琥珀で埋め尽くしたという、量的な驚きと同時に、その造作の精緻さに感心する。入口ドア、金張りのレリーフ、壁に嵌め込まれた絵画の部分を除き、壁面の八割はアメ色の琥珀細工で覆われている。しかし、アンバーが持つ植物的な柔らかさのせいか、他の部屋で感じたような威圧感はあまり感じられない。第2次大戦時、撤退するドイツ軍がこの部屋の琥珀を全て剥がして持ち去ってしまい、その行方は未だに判らない。ドイツから返却されることを諦めた当地出身のプーチン大統領としては、建都300年祭までに、何としてもこの琥珀の間を復元したかったに違いない。それにしても、よく此処まで見事に復元したものである。ドイツに対するロシアの意地が感じられる。

 まだ薄っすらと霧に煙っている庭園を皆で歩いた。宮殿の前庭は手入れが行き届き、フランス庭園風の花壇がきっちりと整っているが、右手の大きな池の方へ歩いて行くと、大木の茂みの間あいだに野芝の空間がゆったりと開けて、散策する者の心をなごませる。池の向こうにはトルコ風の浴場が見える。野芝の広がりにはぽつんぽつんと彫刻が置かれ、彫刻の周りでは作業員が2〜3人草刈をしている。森の中の緩い坂道を行くと、牛乳の壷を落として嘆き悲しむ少女のブロンズ像が、大きな花崗岩に座っている。良く見ると岩そのものも作品の一部で、岩の上の割れた壷からは絶えず水が流れ落ちるように造られている。ソコロフという彫刻家の作で、多くの詩人に詠われている像だそうだが、少しセンチメンタルが過ぎる作風だ。エカテリーナ2世の発案で造られた古代ギリシャ風のキャメロンの回廊。プーシキンが「雲に向かって聳える宮殿」と詠った回廊も、今は古びて静まりかえっている。回廊の階段下には花々が咲き乱れているが、何故かすこし寂しげだ。広大な庭園を全部巡る時間はないので、展望テラスからの眺めを楽しんだ後再び宮殿の前庭に戻った。ロココ調の白と淡いスカイブルーの宮殿正面を背景に皆で記念写真を撮り、良くも悪くもロマノフ王朝の権威の象徴であるエカテリーナ宮殿に別れを告げる。

 宮殿のすぐ右隣にはリツェイと呼ばれる帝政時代の男子貴族学校が立っていた。詩人プーシキンがこの学校の1期生だったのに因んで、彼の生誕150年を記念して再建されたとのこと。今は学校ではなく記念館となっている。青年時代の彼の作品の多くが、このリツェイ在学中に書かれたそうだ。記念館の庭では、プーシキンのブロンズ像がベンチにしなだれるように腰掛けて、物思いに耽っていた。あの「青銅の騎士」の有名な一節、「太陽は霧の彼方、陽光を知らぬ森がざわめいている」とでも詠おうとしているのだろうか。

 帝政ロシア時代の面影が残るツアールスコエ・セロ、皇帝の村を後にして再び市内にもどり、デカプリスト広場に程近いセナットというレストランで昼食となった。庭園散歩などで大分運動した体にロシアのビールが沁み通る。


市内観光の午後

 イサク聖堂の裏手、ネヴァ川沿いのデカプリスト広場で食後の休憩。1825年12月、この広場に専制政治と農奴制度に反対する青年貴族や将校が集結し、革命を叫んだ。だが、彼等の試みは挫折。処刑されたりシベリヤに流刑になったり悲惨な結果に終った。ここはかって革命の血が流れた広場である。

 広場にはまたピョートル大帝が馬に跨った銅像が立っている。自分がピョートル大帝の近代化思想の後継者であることを誇示しようと、エカテリーナ2世が建てた銅像で、プーシキンの抒情詩に因んで「青銅の騎士の像」と呼ばれ親しまれている。広場は新郎新婦の結婚式後の記念撮影の場所として人気があるらしく、見ていると正装の新婚カップルが親戚や友人を引き連れて次から次へとやって来る。花嫁は純白のウエディング・ドレスだが、新郎は背広の人もいる。美人の新婦、そうでもない新婦。いろいろのカップルが現れるので、見ていて飽きない。ロシアでも最近は離婚率がUPするばかりで、遂に50%を超えてしまったそうだが、なんとか末永くお幸せに。また、出来ちゃった婚も近頃は増える一方と聞いたが、今のところそれらしき形状の花嫁は現れない。ウオッカやワインの栓を抜き、我々観光客にも勧めてくれて乾杯を重ねる。小春日和の午後、広場には國際親善の輪が次第に広がっていった。

 マリーナの話を聞きながらバスで市内を回る。話題は多岐にわたった。

  • 人口500万人、ロシア第2の都市サンクト・ペテルブルグは、過去に4回も名前を変えた。ドイツ式発音のペテルブルグから始り、ロシア風に改めペトログラードに。その後、レーニンの死を記念してレニングラードに変更。そして、ソ連邦の解体前夜には住民投票によって、再び振出しのサンクト・ペテルブルグに戻った。


  • 第2次大戦中はドイツ軍の封鎖作戦で兵糧攻めに遭った。100万人の餓死者を出しながら、市民は団結して900日間を頑張り通した。ペテルブルグが別名英雄都市と呼ばれるのはその為である。


  • 笠間市出身の女流画家、山下リンは、東京ニコライ堂の牧師に連れられてペテルブルグに勉強に来たが、イコン画ばかり描くのが嫌になり帰国した。
    しかし、彼女の絵の1枚は今でもエルミタージュ美術館に収蔵されている。


  • プーシキンとオネーギンは小学校では必須として教えられている。


  • ソ連解体後バルト3国は外国になってしまったので、休暇で出掛けるのにビザ取得に60ドルも掛るので皆困っている。


  • ウオッカはライ麦を原料に15世紀から作られてきたが、40度の強さが、最適の度数だと云われている。


  • 日露戦争の軍神、広瀬中佐は、海軍の駐在武官としてペテルブルグに駐在したので、当地には友人も多かった。


 ロシア美術館の裏手にあるスパス・ナ・クラヴィー聖堂でバスを降りて写真撮影。キリスト復活教会または血の上の教会と呼ばれるこの聖堂は、実にごてごてと凝っていて、あのモスクワの赤の広場のワリシー聖堂を凌ぐ程である。言葉ではとても説明のしようもないが、特色のある5本の玉葱ドームを持つこの複雑な色と形の教会は、最もロシア正教的な建築物の代表格と云える。

 1861年に農奴解放令が発布されて、農奴解放運動ナロードニキも次第に浸透していったが、1881年3月、時の皇帝アレキサンドル2世は、解放運動から先鋭化したテロ分子によって、この聖堂の前で爆殺されてしまった。やがてやって来る共産革命の火種は、この頃から既に燻りはじめていたのだろうか。

 聖堂周辺の細く入り組んだ運河の風景は、土産物屋の屋台なども並んで、どこかベニスの裏町を想わせる。市内最大の橋トロイツキー橋を渡り対岸の通りを右に進むと、2本マストに3本煙突の巡洋艦オーロラ号が川岸に係留されている。1905年の日本海海戦で大破したが、辛うじて帰還した600トンの船で、1917年の十月革命では、臨時政府がひそむ冬宮に向けて革命を告げる号砲を放ち総攻撃の合図をしたそうだ。現在は海軍博物館の分館となっている。

 気温がマイナス30度まで下がる冬季、大ネヴァ川をはじめ市内の川は毎年完全に氷結していたが、この4〜5年は部分的にしか氷結しなくなったそうだ。地球温暖化が原因だろうとマリーナが呟いた。バスは大ネフカ川を渡りネヴァ川を再び渡って、ペテルブルグの銀座通り、ネフスキー大通りにやってきた。ゴーゴリーに「ネフスキー通り」という作品があるが、この通りはドストエフスキーやトルストイなど、ロシア文学に度々登場してくる。新旧いろんな様式の建物が並んでいるが、それが却って町並みを魅力的にしている。バスから眺めていては物足りない。是非降りて歩きたい。少しでいいから自由時間が欲しい。200年以上前に建てられたという2階建てのデパートの辺りは人で溢れ、歩行者はぶつかりながら歩いている。脇道に入って、チャイコフスキーが生水を飲んで具合が悪くなり、3日目に死んだという家の前を通った。街角のさもない二階建は彼の兄の家である。彼は兄の家に遊びに来て寝込み、53歳で貴い命を落としてしまった。死因はコレラではないかと云われている。法務省の役人から転身して大作曲家になった彼。せめてあと10年長生きしていたら、素敵なバレー組曲があと何本か生まれていただろうに。

 ホテルに帰って少し休んだ後、M総領事との交歓ディナーに出掛けた。アダマンテという所謂ミックス・メニューのレストランでの夕食会は、話も弾んで楽しかった。ウクライナの弦楽器バラライカに乗せて歌った女性歌手の澄んだ歌声も、我々の旅愁を揺さぶりその夜の宴を盛り上げた。M総領事は、建都300年を記念して、日本政府から桜の苗木千本をペテルブルグ市に贈る計画だと話していたが、マイナス30度の冬に耐える桜の品種もあるのだろうか。

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