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| 「ロシア旅行・私の二都物語−モスクワとペテルブルグ」 小林正典 |
| 6月/04 |
| モスクワこぼれ話 モスクワの交通渋滞は日増しにひどくなっているそうだが、バスから見ていると自転車が見えない。アンドレによると、ロシア人にとって自転車は街の中で乗る乗物ではなく、夏の休日などに郊外で乗るものなのだそうだ。また冬の休日には家族でノルディック・スキーを競ったり、スキーを履いて自然を歩くネイチャー・スキーを楽しむのが、モスクワっ子の一般的レジャーだそうだ。 モスクワ川沿いの道路に出た。モスクワ川も冬は凍結するが、スケートをするのは危険だ。特に最近は異常気象で急に気温が上がったり、何が起こるか分らない。モスクワ市民は寒さには強くマイナス30度でも平気だが、暑さには誠に弱く、異常気象で夏季に30度以上の猛暑になったりすると、殆んどの家にはエアコンが無いので、病人が続出してしまう。 いまモスクワは日本食ブームで、在留日本人は千人に満たない都市なのに、和食レストランは200軒以上もある。ロシア人は醤油味を好み、サシミも山葵も大好物。若者の間ではいま日本食がファッション化していて、和食店で一杯やることがカッコイイことになっている。焼き鳥屋はすでにチェーン展開されており、回転スシはまだだが、これも近々出現してくると思われる。しかし、経営面から見ると、競争は激しいし、売上税は取られるし、衛生局のインスペクションも厳しいので決して楽ではない。最近ではイタリア料理とのミックス店など新しいスタイルの店も生まれている。腕の良い日本人の板前は高級店に限られるが、ニュー・リッチの人達は高級店で日本円にして一度に1万5千円から2万円使うことは極く普通だとのこと。 昼食はタス通信社のビルの中のレストランで食べた。酸味の強い黒パン、赤かぶのスープ、ビーフストロガノフ。シベリアン・クラウンというビールは上等だったが、注文したグラスワインは不味くて飲めなかった。 クレムリン見学 昼食後はクレムリンの内部を見学に出かけた。バスを降りて白い円筒形のクタフィア塔のところで入場チケットを買う。塔と言えばトンガリ帽子型やネギ坊主型・玉葱型ばかりが多いモスクワで、このクタフィア塔だけは珍しく円筒形である。持込みを許された小さな手荷物だけを持って、ゆるやかな坂を登りトンガリ帽子のトロイツカヤ塔をくぐると、クレムリン城の内部である。 クレムリンとは城塞を意味するロシア語だそうだが、ソ連邦時代に較べ現在は大分その重みも軽くなった。だが、今でも政治的権力闘争の営みがこの城壁の中で昼夜行われていることに変りはない。そして國際政治の面でも、世界の動向を左右する外交上の信号が、日夜ここから発信されている。 しかし、何と言っても観光客にとってのクレムリンの魅力は、強大な政治権力と宗教権力のもとで育まれて来た、ロシアの重厚にして絢爛たる文化遺産が、この城壁の中にしっかりと凝縮・保存されていることである。 先ず正面に「クレムリン大会宮殿」が見えてきた。この銀色に耀く建物はクレムリンの中で一番新しい建物で1961年に建設された。かつて、ソ連共産党大会や中央委員会総会などの会場として、政治の表舞台に出た建物だが、現在は国際会議や収容6千人の巨大劇場、ボリショイ第二劇場として使用されている。しばらく左に歩くと、砲身だけがヤケに太い大砲のオバケのような物の前に出た。「大砲の皇帝」と呼ばれるもので、16世紀末に鋳造され、89cmの口径は当時世界最大を誇った。幸か不幸か一度も発砲されたことはなく、砲身の前に置いてある4個の弾丸も、後日作られた飾り物らしい。当時の世界で最大・最強を誇った大陸間弾道ミサイルと云ったところか。 道路を挟んで大砲のオバケの反対側には大統領府の建物が見えた。プーチン大統領がクレムリンに居る時は、緑色の丸屋根の上に大統領旗が掲げられているそうだ。この位置からではその旗は見えないが、来訪中のサウジのアブドラ皇太子と、今日は城内のどこかで会談中だろう。 大砲から少し奥へ進むと、今度は馬鹿デカイ鐘が道路脇に置かれていた。高さが6m、重さは200トンもある世界最大の鐘である。しかし、鐘の縁が一部欠け落ちて、大きな穴が開いている。これは「鐘の皇帝」と呼ばれ、18世紀中期、当時の技術の粋を尽くして鋳造したものだ。鋳造中に火災が起き、不用意に冷水をかけたため、一部が欠け落ちてしまったのだそうだ。欠けた部分も一緒に飾ってあったが、その破片だけでも重さが11トンもある。 一度も鳴らされたことのない不幸な鐘を過ぎて、右に回ると広場に出てきた。クレムリン内でいちばん広い「サボールナヤ広場」である。この広場は周囲をぐるりと歴史的建造物に囲まれており、広場に立っているだけで圧倒される。15世紀から17世紀にかけて、帝政時代の公式行事の多くがこの広場で催された。駆け足で飛び回る我々の観光では、広場を取り巻く聖堂や鐘楼や宮殿を、ひとつひとつ見学することは不可能である。広場のまん中に立って、華やかだった当時の戴冠式、宗教行事、祭典、大葬儀などをイメージするのが精一杯だ。 ウスペンスキー大聖堂、聖母受胎告知聖堂、アルハンゲルスキー聖堂、十二使徒聖堂、イワン大帝の鐘楼、グラノヴィータ宮殿、パトリアーシェ宮殿など、どの屋根も金色に耀く玉葱ドームだらけだが、よく見ると、どの建物もそれぞれに個性がある。歴史建造物の宝庫サボールナヤ広場を出て右に曲がり、次は「大クレムリン宮殿」に向かった。 城壁の外、モスクワ川の対岸からクレムリンを望む時、クリーム色の壁に緑色の屋根、屋根の中央に白青赤3色のロシア国旗を掲げた大きな建物が見える。それが報道写真などでお馴染みの「クレムリン宮殿」である。この宮殿のシャンデリア、絨毯、家具、彫刻、絵画などは、世界中のどの宮殿にも劣らぬほど豪華だそうだが、現在は外国の国家元首や要人との会見場として使われるため、残念ながら観光客の立入りは許されていない。 クレムリン宮殿を通り越して、最後は南の角にある「武器庫」に入った。名前が示す通り、甲冑や武器を製造し保管する場所として16世紀に建てられたものだが、18世紀初頭、ピョートル大帝の命令で博物館に変った。博物館というより実体はロシア帝国の宝物殿である。王冠、美術工芸品、、外国からの贈物、金銀細工、宝石、衣装、織物、宮廷馬車、数々の戦利品など、ロシア帝国の栄華の歴史そのものが収蔵・展示されている。以前、トルコのトプカピ宮殿でオスマン帝国の同様の展示品を見て驚いたことがある。時代背景も異なるが、この「武器庫」の展示品はトルコのそれよりも世俗的、現実的で、国家権力の誇示がより一層際立っている。トルコのそれに較べるとロマンがない。 金銀財宝のコレクションを見て歩くうち、溜息が出るよりむしろ呆れてしまって、終いには息苦しくなってきた。権力者が身辺を豪華絢爛に飾り立てて、自分の地位・権力を誇示し、その永続を計る気持ちは分らなくはない。しかし、こんなにまで金銀財宝や豪華衣装で飾り立てたのは何故なのだろう。皇帝や女帝たちの意志に拠るものなのか、それとも周りがそうさせたのか。 2mを超える大男だったピョートル大帝の巨大なブーツや服に驚き、もし彼がNBAの選手だったらなどと想像してみたり、小ぶりで極端に胴の引絞まったエカテリーナ2世の豪華衣装を眺めながら、小柄でウエストが砂時計のようにくびれた女帝に、臍出しヒップ・ハングのGパンでも履かせたらどんなだろうなどと、些か不謹慎な想像を巡らし、ようやく胸のツカエを解すことが出来た。 クレムリンからの帰りは環状道路を走り、スターリン・ゴチック様式の外務省の建物やチエホフが住んでいた家、チャイコフスキー劇場などを眺めながらホテルに戻った。慌しい市内観光でいささか疲れたが、ひと休みした後、今夜はこれからモスクワ在住の大学同窓たちとの交歓パーティーである。 交歓パーティーは赤の広場に隣接するロシア・ホテルの中の東京・上海レストランで開催された。21階建てのロシア・ホテルはモスクワでは最大、世界でも十指に入る巨大ホテルで、部屋数は5500室を超える。「表玄関から入った女性が、裏口から出て来た時には既にお腹が大きくなっていた」というジョークを産んだほど大きなホテルだが、東京・上海レストランは大学の大先輩であるS氏の経営で、風格のある立派なレストランである。 モスクワを中心にロシア各地で活躍する大学同窓は、現在50名を超えているが、その内30数名が集まって下さり、日本からの我々を歓迎してくれた。商社、大使館、家電、通信、新聞、光学、石油、航空、製鉄、そしてロシア美術やバレエを研究中の女子留学生など、先輩・後輩の活躍分野は実に多岐にわたり、話題は尽きることがなかった。和食、中華、洋食、ロシア料理を織り交ぜたビュッフエを楽しみながら、皆おおいに語り大いに飲んで、モスクワの夜は更けていった。交歓会の成功は、会場運営者のS氏の寛大さと影の気配りに負うところが大きかった。特に惜しげもなく栓を抜いて下さった高級ワインの味は、忘れ難いものとなった。「東京外語会ロシアツアー・モスクワ支部交歓会」の垂れ幕と共に集合写真に納まり、交歓会は無事お開きとなった。 9月3日(水) ロシア正教の総本山へ 今日はモスクワの北北東71キロにある中世の面影を残す鄙びた町、セルギエフ・ポサードを訪ねる。目的は1993年にユネスコ世界遺産にも指定されたロシア正教の総本山、聖セルギエフ三位一体修道院の見学である。 気温11度、快晴である。ガイドのアンドレによると本当に久しぶりの快晴らしい。彼はまるで自分の手柄のように喜んでいる。平和大通りを北へ向かう。 マクドナルドの看板が見えたが、派手な教会などが多いモスクワではマクドナルドの看板も地味でおとなしく見える。高さ545m、モスクワでいちばん背の高い構築物、オスタンキノTV局のテレビ塔が見える。337mのところにはレストランがあって素晴らしい眺めだそうだ。反り返った細いナイフを突き立てたような塔が見える。ガガーリンの宇宙飛行を記念したオベリスクで、材質はチタン、気温の変化で色が変るように出来ている。 郊外に出た。ヤロスラブリ街道沿いを北に向かうと中級のアパートが目立つ。8階から12階建で、2DKで30〜50平米、3DKで65〜85平米。日本の初期の頃の公団団地並みである。賃貸でなく殆んどが持ち家だが、住宅ローンの金利は15%と恐ろしく高いそうだ。建設工事時の労働奉仕と引き換えに、団地を無料で与えられた人も多いらしい。光熱費と共益費で1ヶ月3000円は掛る。 賃貸の家賃は中級団地でも月300ドルから400ドルするので、ニューリッチになった人達でないととても払えない。そんな中で、日本の大手商社の支店長が家賃1万ドルもする家を借りて、批判されたこともあった。 やがて、沿道は広々とした田園風景に変り、森や林の中にはモスクワ市民の夏の別荘、「ダーチャ」が見えてきた。ソ連時代、モスクワの市民たちは1家族につき郊外の土地600平米の使用を許された。目的は食料の自給自足を促すためで、市民はその土地に小さな小屋を建て、週末には野菜作りに励んだ。 アンドレの家でもダーチャを造って、野菜作りを試みたが、週末だけの素人農法では上手く行かず、農機具代や肥料代を使った割りには収穫は乏しく、却って町で野菜を買った方が安上がりだったそうだ。沿道には牧場やジャガ芋、赤カブ、玉葱の畑が見える。りんごの木もかなりある。大きなスイカを道端に山と積んで売っている。これはずっと南のカスピ海に近いアストラハンの町から運ばれてきたスイカとのこと。南では今スイカがシーズンなのだ。アンドレによると、今年は雨が多いのでキノコの当たり年だそうだ。白樺林を歩けば日本の松茸に似たキノコが、好きなだけ取れると聞いて羨ましくなった。 セルギエフ・ポサドの町に入った。人口7万人程度の小さな町だが、古くから芸術家たちの住む町として知られ、これから訪れる大修道院の三位一体聖堂にフレスコ画を描いたアンドレイ・ルブリョフもこの地に住んでいた。 バスはセルギエフ修道院に到着。16世紀に造られた白壁に緑の屋根、3階建てのがっしりした城壁が修道院全体を囲んでいる。かなり長い並木道の導入路を歩き城門の中に入る。敷地の中央には、4本の鮮やかな青色ドームに囲まれて、中心に1本の金色ドームが聳え立つ建物が見える。それはクレムリンのウスペンスキー聖堂を模して16世紀末に造られた大聖堂で、ここでも同じくウスペンスキー聖堂と呼ばれている。快晴の青空の下で5本の玉葱ドームがキラキラと輝いている。ここで由緒があるのは、15世紀初めに出来た三位一体聖堂だが、画家ルブリョフが描いた有名なイコン「三位一体」の実物は、保存の為かモスクワのトレチャコフ美術館に移されているそうだ。城内でいちばん背が高いのはスリムな5階建の鐘楼で、鮮やかな青と白に塗られている。先程の玉葱ドームと鐘楼は城壁の上に顔を出してこの村のランドマークとなっている。敷地内には他にも宮殿や教会や博物館などがある。いずれもビザンチンの流れを汲むロシア正教の思想に沿ったものだが、色も形も個々別々の建物は、夫々に完成度が極めて高く壮麗である。色や形などで安易に全体の統一を考えず、むしろそれぞれの建物に個性を主張させている。不統一の統一。それがロシア正教の哲学なのだろうか。ワビ・サビ・調和の大和民族とは、DNAが異なることを痛感する。H氏が誘うので、敷地の奥の鉄格子で囲まれた一角を覗きに行ってみた。神学校なのだろう、そこには観光客のざわめきとは一切無縁の静寂の世界が広がっていた。 昼食は修道院から程近いアブラームツェヴォ村の「ギャラリア」という店ででとった。並木路の多い風情のある村である。ブリヌイというロシア式薄焼きのパンにバターを塗り、イクラを巻いて食べたり、サリヤンカというレモンとオリーブの入ったスープ、おなじみ挽肉と玉葱のピロシキ、鶏肉を包んで揚げたキエフ風カツレツなどがコースで出てきたが、日本人観光客用にポーションを落としたのか、歩き回った後のランチとしては量的に物足りなかった。 |
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