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「ロシア旅行・私の二都物語−モスクワとペテルブルグ」 小林正典
5月/04

9月1日(月) 7時間遅れでモスクワへ

 朝の集合時間に遅れないよう、前の晩からわざわざ成田のホテルに泊まったのに、昼12時出発予定のアエロフロート582便は、土壇場で7時間のディレーが決り、出発は夜の7時になってしまった。全員もうがっくりである。

 行き先がロシアであれば、若干のトラブルは覚悟していたが、出鼻を挫かれた感じだ。航空会社が呉れた食事券を使って、なるべくゆっくりランチを食べたり、空港内をうろついたり、最後はクレジットカード会社のラウンジ利用を思いついて、ソファーで新聞を読むふりをしながら昼寝をしたり、時間を潰すのに大いに苦労した。

 搭乗間際にゲート・チェンジなどがあって慌てたが、何とか夕方7時過ぎには離陸してくれてホッとした。私は機上から茫漠たるシベリアの大地を眺めるのが好きなのだが、夜間飛行になってしまったため何も見えない。日本海もシベリアも闇の彼方である。噂で聞いていたよりスチュワーデスの平均年齢は若そうだが、ロシアの伝統を守ってスマイルは全然ない。水を頼んだら「もう、水はありません」と言うし、モスクワが近づいて、入国カードを配りはじめたが、それも途中で品切れになってしまった。「空港にあります」とすましている。空港に置いてあることくらい誰だって知っている。入国カードや水は機内の必需品の筈。充分ストックして置いて下さい。お願いしますよ。

 10時間以上飛んで、やっと深夜のシェレメチェヴォ第2國際空港に着陸した。何故か通路は薄暗く天井が低い空港である。バゲージ・コンベイヤーの脇に待機したが、なかなか荷物が出て来そうもない。ふと気がつくと、トイレの前に男女とも長い行列が出来ている。用を済ませて出てきた同僚に尋ねると、トイレの中は狭く、便器の数が極端に少ないらしい。男性はまだしも女性軍には気の毒である。もう相当事態が逼迫している顔付きの女性もいる。

 かくして、モスクワの空港の第一印象は、薄暗く、荷物の出が遅く、そしてトイレが足りない空港ということになってしまった。

 やがて、アンドレという40代半ばの男性ガイドが現れた。体格はかなり大きくハキハキと歯切れの良い日本語を話す。我々には荷物に触れさせず、全てを自分で仕切っていくその様子を見ていると、相当のベテランである。

 その夜のモスクワは雨だった。バス駐車場までの通路は照明も暗く、舗装もデコボコと水溜りだらけである。早速迎えのバスに乗り込み、雨に濡れて光る大通りを市内のホテルに向かう。アンドレの説明によると、このところのモスクワは雨が多いそうだ。深夜でも道路はかなり混んでいる。人口900万に近い大都市モスクワには、東京の環7・環8・外環状のように3本の環状道路が走っており、市の中心のクレムリンからは7〜8本の大通りが放射状に郊外に向かって延びている。丁度、ダーツ・ゲームの盤のようだとガイドブックに書いてあったが、構造上も交叉点の多い都市に車が増えたことで、最近は交通渋滞がひどいらしい。今日から学校の新学期も始ったので、また道路が一段と混むだろうとアンドレが云った。
「滞在中はパスポートを必ず携帯して下さい」と、アンドレが2度も念を押した。チェチェンのことなどがあるからだろうか。街中で尋問を受けた時、観光客はパスポートを持っていないと厄介なことになるらしい。バスはレニングラード大通りから、トゥヴェルスカヤ・ヤムスカヤ通りに入り、やがて通りに面したシェラトン・パレスホテルに到着した。
8階建、客室数221室のこのホテルは外観に較べ内部は意外にモダンで、食堂はヴィエナ、バーラウンジはカフェ・モーツアルトなどと洒落た名前が付けられ、内装もオーストリア風に出来ている。

 成田出発が遅れたお蔭で、今日はもう何もしないで寝るしかない。日本時間だと既に夜は明けてしまう時間である。旅行は初日に充分睡眠を取らないと最後まで響く。同室のH氏とふたり荷ほどきもそこそこに、急いでシャワーを済ませ、ベッドにもぐり込んだ。


9月2日(火)モスクワ観光と親睦パーティー

 観光への出発時刻をずらしたので、朝は少しゆっくり出来た。今日も天気は雨模様のようだ。ドーブラェ・ウートラ、おはよう。フロントで気温を尋ねると摂氏11度とのこと。日本の11月くらいだろうか。モスクワ・タイムスの朝刊1面には、新入1年生の教室風景が大きく載っている。若い女教師が精一杯着飾った生徒たちから、抱えきれないほど沢山の花束を贈られ微笑んでいる。

 新入生の一人ひとりが花束を先生に贈ることがロシアの風習らしい。学校教育関連の新聞記事を読んでみると、――テロの危険を避けて始業式は校庭でなく屋内でやる学校が増えている。外部から性犯罪者などが侵入して来たら、ナイフでもハサミでもよい、何か尖った物を持って大声を出して立ち向かうよう教育しよう(この辺が、ただ逃げるだけの日本と違う)。老化した施設が多いので学校の防火設備、非常警報装置を点検し改善しよう。給食のメニューはもっと栄養価の高いものを工夫しよう。先生は宿題を出し過ぎず、もっと生徒にゆとりを持たせよう。始業式などの学校行事に出席して売名を狙う政治家には気をつけよう。先生の月給が3000ルーブル($100)では、残業やアルバイトをせざるを得ない。政府は教員の待遇改善を急ぐべきだ。―――モスクワには小学校が現在1600校あり、今年度また15校増えるそうだが、問題は山積みのようだ。教育関係の記事を読むだけでもその国の国情がよく分る。


市内観光で赤の広場へ

 市内観光に出掛ける。トゥベルスカヤ通りを赤の広場に向かって走る。途中、革命詩人マヤコフスキーの像やプーシキンの像を見た。市庁舎の前を通ると、何やら大掛かりな舞台の飾付けが進んでいる。この週末にモスクワ市制856年祭を祝うための装置だそうだ。大通りを歩行者天国にして大騒ぎするらしい。856年目の今年に格別の意味がある訳ではなく、要するにロシア人はお祭りが好きで、毎年市制を盛大に祝いましょうということらしい。町を走る車を見ると、ロシア製の車に次いで多いのがドイツ車、次が日本車である。アメリカ車は見えない。車に限らずロシア人のドイツ製品に対する憧れは非常に強く、モスクワでも社長はベンツ、部長や用心棒は日本車に乗っているそうだ。

 バスを降りて赤の広場への坂道を登って行く。先ず、赤茶色のド派手な聖ワリシー聖堂が迫ってきた。ロシア正教のシンボル的存在である。真中に高さ47mのネギ坊主型の塔が1本。その周りを高さも大きさも形も異なる8本の塔が取り囲み、塔の屋根はいづれも玉葱型をしている。玉葱の色や模様はそれぞれに異なる。16世紀半ばにイワン雷帝が造らせたものだが、不均衡の均衡とでも云うのか、それなりにバランスが取れている。玉葱塔の一つひとつが昔はロシア正教の教会になっていたが、現在は博物館として開放されている。一度見たら忘れないほど個性豊かな聖堂だが、そのドギツサはどうも好きになれない。完成当初はもっとシンプルな色彩だったが、次第にゴテゴテと飾られてしまったらしい。完成時、雷帝はこの聖堂がすっかり気に入って、将来二つと同じものが造られないように、設計者2人の目玉をくり貫いてしまったそうだ。

 聖堂の裏手にはミーニンとパジャルスキーの立派な銅像が立っている。二人は1612年人民義勇軍を指揮して、モスクワをポーランド軍から開放した国民的英雄である。広場入口の最高の場所に立って、二人ともさぞ満足だろう。

 広さ約2万2千坪の赤の広場に入る。入口付近にロブノエ・メストという石で出来たお立台のようなものがあった。それは皇帝が布令を読み上げたり、重罪人の処刑をした台座で、農民一揆の首謀者として捉えられたステンカ・ラージンもここで処刑された。専制君主のお立台はいま見ても陰気で気味が悪い。

 広場の中央では市制856年祭の大舞台の設営が盛んに行われていた。単なる市制祝賀に一体どれだけの予算を使うのだろう。ひとごと乍ら気になる。

 クレムリンの北東側の城壁を正面にして、左に聖ワリシー聖堂、右に国立歴史博物館、後ろにグム百貨店を背負い、赤の広場は長さ700m巾130mの矩形をしている。レーニン廟と城壁と歴史博物館の赤レンガ以外には特に赤い色はない。それでも「赤」の広場と云うのは何故だろう。実はロシア語の赤、クラースナヤは古語では「美しい」という意味だった。この地は昔はごたごたと露店が立ち並ぶ商業地だったが、17世紀に整備されて美しい広場に生まれ変わった。そこで人々はここを美しい広場と呼ぶようになったそうだ。従って、訳語の方も古語に倣って「麗し広場」とでもすべきだろう。もっともあの恐怖政治のソ連時代、メーデーや革命記念日に、この広場は赤い垂れ幕や赤い旗で埋め尽くされたのだから、その意味での「赤」の広場でもよいのかも知れない。

 かっての米軍のGI帽のような帽子に、安物のバッジをわんさと付けたものを掌に乗せて、「センネン、センネン」と青年が迫ってきた。センネンは千円のことである。モスクワの写真ガイドブックもセンネンである。あいにく私はセンネン札もルーブルも持ち合わせなかったので、米10ドル札(1100円)で日本語版を一冊買った。少し得をした青年は実に嬉しそうな顔をした。ルーブルなら300ルーブルである。ガイドブックは写真は美しいが、読んでみると説明文の方は不思議な日本語である。こんなことなら英語版を買うべきだった。

 城壁の前に建つピラミッド型をしたレーニン廟では、永久保存のため防腐処理をしたレーニンの遺体が、ガラスの棺に安置されている。スターリン、フルシチョフ、ゴルバチョフなど、数々の権力の移り変わりを見てきた赤の広場。歴史の流れと共に再評価に遭い、どの権力者も次第に影が薄くなるのが世の常だが、神格化されてきたレーニンだけは、今後も別格なのだろうか。我々は花崗岩で出来たレーニン廟を背景に、三々五々記念写真を撮り合った。

 広場に面して建つグム百貨店を覗いてみた。吹き抜けの3階建てに透明な屋根を架け、明るい通路はすでに暖房されている。外資系の専門店が多く、巨大なショッピング・モールといった感じだ。季節柄、ショーウインドウには冬物ファッションが飾られていたが、北国だけあって多様なウインター・アパレルの陳列は、垢抜けていて見応えがあった。通路に人待ち顔で佇むロシア美人を盗み撮りしたり、マトリョーシカのスタンドを冷やかしたりした。

 時間の限られた市内観光である。あちこちうろつくより、丘の上からモスクワの全貌を掴もうということなのか、赤の広場の次は市の南西に位置するヴァラビョーヴィの丘へ向かった。以前はレーニンの丘と呼ばれた所で、オスタンキノ局のテレビ塔を除けばモスクワで最も高いところで、モスクワ大学もその丘の上にある。途中、事故で滅茶苦茶になった乗用車の残骸が路肩に乗り上げているのを見た。ウオッカの飲み過ぎだろうか。VIP送迎の黒塗り高級車の車列が猛スピードで反対車線を飛ばして行った。あれは石油大臣を引き連れて昨日モスクワ入りしたサウジのアブドラ皇太子一行に違いない。サウジのトップがロシアを訪問するのは歴史的事件だ、と今朝の新聞が伝えていた。あの9月11テロ以来、アメリカはサウジからのクルドオイルの輸入を手控え、次第にロシアからの輸入にシフトようとしている。世界の2大産油国のトップは、今後の対アメリカ輸出戦略について重要会談を行っているに違いない。


雀が丘とモスクワ大学

 ヴァラビョーヴィ丘(雀が丘)に着いたが、天気が好くないこともあってか、眼下に大きなスポーツアリーナが見えただけで、眼下に広がるモスクワの街は寒々と沈んでいた。ただ、他の大都市に較べモスクワにはまだ高層ビルが少ないことだけが印象に残った。この丘は結婚式を済ませたカップルが記念写真を撮りにくる場所として有名だそうだが、今日はそんな姿も見えない。展望広場には安物のマトリョーシカなどを売る屋台が並んでいたが、世界の有名人の顔を画いたコミカルなものが多くて笑ってしまった。モンローとプレスリーのどちらにしようかと迷いながら、値切った揚句にプレスリーの方を買った。

 広場の背後には白樺と菩提樹の林に囲まれて、ロシアの最高学府モスクワ大学が堂々と建っている。学生数は約4万人。本館の建物はいわゆるスターリン式ゴチック建築の代表格で、中央タワーの部分は32階250mの高さを誇り、建物の正面巾は450mもある。両翼の17階建ての部分には学生寮まで入っている巨大な建物である。ソ連崩壊から十数年、いま政府の補助金は削られる一方だというから、この巨大な建物の保守はさぞ大変なことだろう。教授や教職員の給料も減らされてしまったので、今やロシアの大学では賄賂が横行し、入学のための賄賂だけでなく、学期末試験の度に教授に渡す礼金もすでに習慣化し、一単位につき幾らという相場が出来ているそうだ。

 ガイドのアンドレもモスクワ大学の日本語学部卒だそうだが、「モスクワ大学だけは賄賂はありませんよ」と云って笑っていた。日本語学部は経済系、歴史系、文学・言語学系の3つのコースに分かれている。アンドレは文学・言語学コースを専攻したが、パソコン・ワープロを使うようになって、折角苦労して覚えた漢字を忘れてしまい、書けなくなったと嘆いていた。彼は9歳のお嬢さんがいる一児のパパだが、政府要人や経済人の通訳の仕事で何度も訪日したことがあるそうだ。彼の日本語は今どきの日本の若者よりずっと正確である。

 降ったり照ったりの天気で、気温は10度くらいだが、意外に風は冷たく、立っていると手先がかじかんでくる。バスに戻って再び市内に向かう。


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