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「ベトナムの光と影」 小林正典
1月/04

  • 私は今年40歳です。ガイドになるまでにいろいろ苦労したので結婚は遅くなり、2年前に結婚しました。ベトナムでは結婚のお祝いには普通10万ドン(日本円で約900円)程度を包むか、何かプレゼントの品を持って行きます。結婚するカップルは物よりも現金が欲しいのですが、私の場合は現金が少なくて、掛け時計と柱時計ばかり貰ってがっかりしました。今でも我が家は時計だらけです。
  • 昨年、思い切って自分の家を買いました。値段は1億5千万ドン(120万円)、丁度1万米ドルです。多額のベトナム・ドン札を箱詰めにしてバイクの荷台に乗せて運ぶ途中、荷崩れして風に吹かれ空高く飛んでしまったとか、お婆さんが床下に隠したヘソクリ貯金が、洪水で浸水して堆肥になってしまったとか、笑うに笑えない事件が起きたため、最近では高額のベトナムドンは純金貨か米ドルに換えます。私の場合は当時36グラムの純金貨が米ドルで400ドル換算でしたので、四角い純金貨25枚を腹巻に巻いて持って行きました。お臍がむずむずしました。

 ガイドのテムさんの話は、現在のベトナムの生の情報として非常に面白い。バスは国道1号線を南に下って行く。沿道には見事なニッパ椰子の群生が見える。沼地やハス池もあちこちにある。何百匹というアヒルを農夫が追っている姿を見かけたが、いわゆる合鴨農法が盛んなのだろうか。日本の田んぼでは深いところでもせいぜい膝までだが、田仕事をしている農夫が胸のあたりまで泥水に浸かっているのを見て驚いた。メコンデルタの土はさすがに柔らかく深い。あんなに深くては田んぼの中で足を取られたら溺れてしまうだろう。

 沿道に並ぶ民家の軒先には、マンサニータの木がコウモリ傘を広げたような木陰を作り、人々がその下で寛いでいる。庭先にハンモックを吊るしている家が目立つが、あれは昼寝用だろうか。

 道路が悪いので意外に時間がかかり、11時頃メコンデルタの入口の町ミトーに到着した。メコンクルーズの船着場には申し訳程度に屋根のついたボートが沢山並んでいる。早速、定員20人位のボートに乗ってメコンの支流ミトー川を渡り、対岸のベンチェーという広大な中洲の一角にあるタンタック村を訪ねた。
先ず村の名物のココナッツ・キャンデー工場を見学。工場といっても手作業の家内工業である。ココナッツ・ミルクと麦芽と砂糖を、ある植物の葉を混ぜて煮詰めるとキャラメルのような飴色になるらしい。その外この村では良質の蜂蜜、ヤム芋のチップス、ジンジャーの砂糖菓子なども作っている。周辺には果樹園も多いらしく、休憩所でリュウガン、マンゴー、ザボン、パパイア、ライチ、スイカなどを食べながらひと休みした。
お祖父さんの弾く民族楽器に合わせて孫たちが歌う、ローカルファミリーの特別ショーも見せてくれたが、まだまだ素人芸で商品にはならない。最近急に増えてきた日本人観光客用にツアーの中身を濃くしようとする旅行社の努力は分るが、子供を使った中途半端なショーなど止めた方がよい。田舎の村の観光はあくまでも自然な素朴さを大切にすべきで、長い目でみればそれが最高の演出になるのではないだろうか。
贅沢にフルーツで喉を潤した後は、手漕ぎの小舟に2~3人ずつ分乗し、ベトナムのシンボルの編み笠帽をかぶり、ニッパ椰子の生い茂る細い水路をジャングル・クルーズよろしくクネクネと漕いで行った。竿を握る船頭さんはさすがに動きに無駄がない。三角の編み笠帽がこんなに涼しく気持ちの良いものとは知らなかった。やはり、郷に入れば郷に従えである。ニッパ椰子のトンネルをぬけて広い川に漕ぎ出すと、そこに我々が乗ってきたエンジンボートが待機していた。全員‘母船’に乗り移り、再びメコンの川風に吹かれながら周辺の回遊に出発。
ふとテムさんが左手の小さな中洲を指差して、「私は若い時あの島の自分で作った牢屋に2年間入ってました」と妙なことを呟いた。
真相は痛々しい話だった。まだ10代の南ベトナムの少年だった彼は、戦後の共産新政権の洗脳と差別待遇に自分の未来を悲観し、兄貴分の友人と2人で盗んだ小船で行先も決めずにサイゴンを脱出。いわゆるボートピープルである。だが、運悪くプンタウの沖で水上警察に捕まり、このベンチューの中洲に連行された。そして、すでに牢屋が満員なので、自分で自分の入る牢屋を作らされた挙句、洗脳のため青春の貴重な2年間をそのその牢獄で過ごした。テムさんは淡々と話してくれたが、その時の彼の顔からは、祖国の動乱に翻弄されながら修羅場を潜ってきた男の、芯の強さのようなものが滲み出ていた。

 名前は忘れたが川沿いのオープンエアーのレストランでこの土地の名物だという「象耳魚」の姿揚げを食べた。白身のしこしこと歯ごたえのある魚だった。誰かが象耳魚とはピラニアのことではないかと言ったが定かではない。

 帰路、バスの窓から沿道を眺めていると、庭の木陰にハンモックを沢山吊るした屋敷が見えた。テムさんに訊いてみると、あれはハンモック喫茶店だとのこと。アイデアが面白いので最初は客が入ったが、最近はめっきり客は遠のいたそうだ。やはりハンモックは大勢で利用してもサマにならないだろう。
やがてバスはホーチミン市に戻る。昔に較べると随分街路樹が減ったそうだが、フランス人が70年前に植えたという背の高いサオの並木は今でも結構残っていて、7階建てのビルと肩を並べている。この街は街路樹で救われている。

 ホテルでひと休みした後、夕食はサイゴン川回遊のディナークルーズに出かけた。添乗員がホテルのロビーへお客を探しに行っている間に、全員揃ったのでバスは玄関を発車してしまい、乗船する時になって添乗員が居ないことに気がついてテムさんが慌てた。同じようなクルーズ船が何隻も停泊しているし、添乗員のY氏は今夜はセルラーは携帯していないので、タクシーで駆けつけても、我々の船を捜すのはひと苦労だろうという訳だ。しかし、蛇の道はヘビ、何をどうしたのか知らないが、Y氏はニヤニヤしながら10分後にはちゃんと我々が陣取っていた甲板席に現れた。
周りが暗くなるにつれて居並ぶクルーズ船の灯りが川面に映え、フランスやドイツの観光客も交えて満員の甲板席のムードは華やかになってきた。だが、この種のツアーなら仕方がないことだが、料理の方は極く型通りのものである。竹で作ったベトナム民族楽器「竹琴?」を加えたステージ・バンドが、日本の歌ばかり演奏するのでこちらも仕方なく義理の拍手をする。斜め後ろのフランス人のグループが、フランスの歌を期待している様子なのに何故かフランスの歌は演奏されない。国際的不平等である。そこで、我々のグループの仏語の得意な女性たちが彼らのテーブルまで慰め?に行き國際交流が始まった。そのうちシャンソンが2曲ほど演奏されると、フランス観光団もがぜん盛り上がった。少し貧弱なベトナム女性トリオのモダンダンス・ショーが終る頃には、船はいつしか岸壁を離れ、川風に吹かれながら夜のサイゴン川をしばし回遊してディナークルーズは終了した。

 ホテル帰着後、少し飲み足りない男性ども4~5人が、ロビー・ラウンジに吹き寄せられるように集まり飲み直した。夜が更けても話題は尽きなかったが、ベトナム戦の当時S新聞社のサイゴン支局員として活躍したことのあるA氏が、「ベトナム戦争の本質は農民の解放運動だったのです」と結論のように言った言葉が妙に印象に残った夜だった。


11月25日(月)トンネル陣地とベトナム戦回想

 今日はいまやベトナム観光での定番コースの一つと言われるクチ・トンネルツアーに出かける日である。8時半にホテルを出発。クチの地下トンネル網はホーチミンから北西に約60キロ、現在のクチの町を通り過ぎて暫く行った所にある。難攻不落の激戦の跡地を見に行くのだが、道中は誠にのんびりした田園風景が続き、ちょっとしたピクニック気分である。畦道を農夫に追われてアヒルの大群が移動して行く。ガイドのテムさんの話だと、アヒルは生後3ヶ月すると食べごろで、卵を産ませるには4ヶ月以上飼育するのだそうだ。バスの中でテムさんから聞いた奇妙な話を少し紹介することにする。

  • 北ベトナム出身の人達は猫も犬も食べます。北には犬肉料理の屋台も珍しくありません。ネズミの丸焼きもよく食べます。ただし、それはドブネズミや家ネズミではなく、田んぼで稲を食べて育った野ネズミです。北ベトナムでは人々が猫を食べてしまったためにネズミが増え過ぎて困ったことがあります。この時は政府が報奨金を出してネズミ退治を奨励しました。家ネズミやドブ・ネズミ、都会のネズミは報奨金のために役所に持って行きましたが、野ネズミは報奨金を貰う前に食べてしまったそうです。
  • ベトナムでは犬は縁起の良い動物として扱われます。それはベトナム語の犬の鳴き声「ヤオー、ヤオー」と、ベトナム語の「ゴールド」の発音が同じだからです。ですから野良犬が庭に入って来ても人々は嫌がりません。もっとも美味しそうな犬だったら、北の人なら食べてしまいますけど。
  • 反対に猫は縁起の悪いモノと見なされてます。それはベトナム語の猫の鳴き声「ミオー、ミオー」が、ベトナム語の「貧乏」と発音が同じだからです。
    それで、猫を家の中で飼ったり、車に乗せることを嫌う人も多いです。まして、野良猫が屋敷に侵入して来たりすると必死に追い払います。もっとも美味しそうな猫だったら、北の人は食べてしまいますけど。

 テムさんの話に大笑いしたが、南部出身の彼は北の人達に対して少し微妙な感情を持っているようだ。バスがクチの町を過ぎた頃から、道路の両側にはゴムの木の林が多くなってきた。元来この地方はゴムの産地だったが、戦争末期に米軍が爆弾と共に大量の枯葉剤を空から散布したため、戦後10年間は草も木も育たなくなった。ようやく10年以上経過してから植物が再び芽を出すようになり、90年代に入って再びゴムやユーカリの林が復活したのだそうだ。

 10時少し過ぎクチに到着。案内所でビデオ映像やイラストを使った地下トンネルの説明を聞いたあと、早速、雑木林の小道を通ってトンネル見学に行く。深さ3m、6m、8mの3層構造に掘ったトンネルの総延長は何と250キロにも及ぶと聞いて驚く。鉄の三角地帯と呼ばれたこの解放軍ゲリラの拠点は、米軍がイヤと言うほど爆弾を投下し枯葉剤を撒き、戦車で突入しても絶対に攻略出来なかった。林の中を歩いていると爆弾で陥没した大きな穴があちこちにある。地雷で爆破された米軍戦車の残骸も格好な見世物となっている。作戦会議室、司令室、食堂、炊事場など数箇所に潜ってみた。メコンの黄砂が堆積して出来た土質は意外に固くて崩れにくく、トンネルを掘るには理想的だったようだ。竹の葉で隠してある小さな秘密の入口は、30cmx20cmしかなく太った人は到底体が通らない。落ちたら最後、串刺しになってしまう落とし穴、民家に侵入した途端に頭や顔に釘が突き刺さる仕掛けなど、米兵の侵入を阻止する各種タラップ類も展示されていたが、どれもこれも薄気味悪く、血祭りに上げられたアメリカ兵の悲鳴が今にも聞こえて来そうだった。

 帰りのバスの中で、私はベトナム戦争にまつわる私自身のグアムでの体験を思い出していた。それはいま見てきた地下トンネルの中で、まだ解放軍が必死に戦っていた73年から、戦争が終結する75年春頃迄のことである。――――

 ケネディー大統領によってベトナムへの本格的軍事介入は始まったが、戦況が泥沼化する中で解放戦線はジリジリと勢力を伸ばし、アメリカは焦りだす。そして、ゲリラ活動の拠点を叩こうと、1965年には北部ベトナムへの爆撃が始まった。これがいわゆる「北爆」であり、それは全てグアム島北端のアンダーソン空軍基地から発進したB−52戦略爆撃機によって行われた。

 爆撃を何年続けても戦況は埒が開かず、解放軍は南へ南へと着実に迫って来たため、1972年に入ると北爆はますますエスカレートする。アンダーソン基地にはB−52の巨大な尾翼が常時何十本も林立し、アプラ港から爆弾を満載して運ぶトラックの重みでグアムの国道1号線、マリンドライブの舗装はがたがたになった。そして、恋人岬の上からタモン湾を横切って南西に向かうB−52の頻度も、1時間おきからやがて15分おき、7分おきと激しさを増していった。グアムに駐留する搭乗員(全て空軍将校)の数も急増し、基地内の将校宿舎だけでは収容しきれなくなり、私が総支配人をしていたフジタホテルをはじめ、当時数軒あったタモン地区のホテルには空軍から緊急要請が来て、北爆の将校たちに客室を提供することになった。BED & BLANKET PURCHASING AGREEMENT、ベッド・毛布買上げ契約、通称BPA契約という奇妙な名前の契約のもとに、各ホテルは相当数の客室を提供した。当時のお客は殆んどがハネムーナーだったが、急にホテルが増えて島はすでに客室過剰になっていたので、月決め契約で40〜50室程度を空軍に提供することは、値段も悪くないし営業上かえって有難かった。フジタホテルにも常時80人から100人の将校が宿泊した。当時B-52のクルーは1機11名編成だったので、早朝6時、基地からの迎えのバスに11名ずつが乗り込んでホテルを出発し、夜の8時頃疲れきった顔をしてホテルに戻ってきた。ホテル従業員たちはこれを将校さんの「ベトナム通勤」と呼んでいた。非番の日の将校たちは何をするでもなく、朝から夕方までプールサイドでごろごろしている人が多かった。また夜はホテルのバーで一本のビールを時間をかけて飲みながら、物思いにふける姿をよく目にした。

 ベトナム通勤のクルー達はずっと無事に帰着していたが、74年頃になると、時折り夜になっても戻らない場合が出てきた。従業員とすっかり親しくなっていた将校が帰って来ない日は、ルームメードが泣きながらその将校の部屋を掃除したり、ホテルも暗いムードに包まれることが何度かあった。戦争末期には北ベトナム側がソ連製の地対空ミサイルを使って攻撃したり、侵入空路を正確に掴む技術を覚えたために、撃墜されたB-52は35機にのぼった。そして、我々が尋ねても「誰々はいま行方不明です」との答えが返って来るだけであった。

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