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「ベトナムの光と影」 小林正典
11月/03

まえがき

 ベトナムへ行って来た。8日間という短い旅だったので、今回は首都ハノイなど北部ベトナムは断念し、ホーチミン市を軸に南部だけの旅となった。出発前に少しばかりベトナムの歴史を勉強しようと思い、本を開いて驚いた。一言で言えば、ベトナムという国の2000年の歴史は、まさに「被征服と動乱」の連続である。まるで2000年前から、インドシナ戦争やベトナム戦争が絶えず繰り返されて来た国だと言っても過言ではない。以下、少し乱暴だがベトナム2000年の歴史を世紀ごとに大掴みに纏めてみた。旅行記に入る前に、大きな流れを掴む意味で是非最初に読んで頂きたい。

 ―――――南越国と呼ばれていた往時のベトナムが、紀元前111年に中国の漢に征服されて以来、およそ1000年もの間ベトナムは中国の支配から抜け出せなかった。しかし、10世紀の呉朝、丁朝、前黎朝、11~12世紀の李朝、13~14世紀の陳朝までの約500年間は、漸く中国の支配を脱してベトナム人自身の王朝が続いた。15世紀に入ると再び中国の明に征服されてしまうが、圧政に明け暮れた明の支配は長く続かず、英雄・黎利が蜂起してベトナム人による後黎朝の時代を築く。しかし、それも無能な王が続いて永くは栄えず、国は乱れて南北に分裂する。4世紀に興り中部ベトナムを中心に遷都を繰り返しながら、何とか生き長らえていたチャンパ王国も15世紀末には滅亡し、16~17世紀の200年間は、南北諸勢力の間で戦国時代が続く。やがて18世紀に入り、フランス志願兵と宣教師の力を借りて戦ったグエン王朝が、何とか国家統一を果たす。しかし、インドシナ半島全域の植民地化を狙っていたフランスは、この時をチャンスにベトナムの植民地化を着々と進め、19世紀の末にはいわゆる仏領インドシナ時代となり、ベトナムはフランスの植民地となって20世紀に入る。やがて1940年、フランスがナチス・ドイツに敗れて支配力が弱まると、日本軍がその隙を突いて進駐したため、ベトナムは日・仏の二重植民支配に苦しむこととなり、この事が「ベトナム独立同盟会(ベトミン)」が結成される火種となる。

 やがて第二次大戦で日本が敗れ、グエン王朝も崩壊すると、フランスは再びベトナム侵略に乗り出し、とりあえず北緯15度線以南を支配下に置く。これが再び長い南北分断の始まりとなり、やがて民族解放運動拡大へと繋がって行く。
1954年、有名なディエンビエンフーの戦いでフランスが敗れると、ジュネーブ停戦会議で北緯17度線が軍事境界線と決定され、ベトナムは完全に南北に分断された二つの国家となる。1960年、北部のベトナム民主共和国では国土統一を悲願と謳った憲法が公布され、「南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)」が結成される。一方アメリカのケネディー大統領は、北に対する反共防衛の名のもとにフランスに代わって南ベトナムの傀儡ジェム政権を支援し、遂にベトナムへの軍事介入に手を染める。そして、1964年にはグアム島からの北ベトナム爆撃が開始され、実に10年以上に及ぶ泥沼のベトナム戦争に苦しむことになる。
1975年4月30日、サイゴンは陥落しアメリカは敗れる。ベトナム戦で戦死した米兵の数は5万人に上り、グアム島出身者も56名が戦死した。これは出身地の人口比率で見ると全米でトップの戦死者数である。グアム島出身の兵士は常に最前線に送り込まれたのだろうか。
翌1976年には共産党一党支配のもと国家は30年ぶりに南北統一がなされ、ベトナム社会主義共和国が誕生する。統一後の新政府は国営企業や合作社組織などを通して、南部の資本主義体制の「改造」を強制的に進めたため、将来を悲観した多くの南部人や華僑は国外脱出を試み、ボートピープルという悲劇を生んだ。その後、1986年になるとドイモイ(刷新)政策によって市場経済化が導入され、中国や西側諸国との経済関係も拡大し、ベトナム経済は急成長路線に乗る。そして、ベトナム戦終結から20年を経た1995年にはアメリカとの国交も再び正常化した。―――

 さて、歴史の粗筋はこのような事だが、私も俄か勉強した歴史の流れを念頭に8日間の旅に臨んだ。先ず、ホーチミン市ではあの怒涛の如きバイクの流れに驚いた。ドイモイ政策による外資導入・技術導入で、90年代には毎年10%近い成長を続けてきた経済も、97年のアジア通貨危機以後その勢いは鈍りつつあると聞いたが、とにかく町を歩いていると、人々は皆忙しそうで、非常に悪質な排気ガスを吐きながらバイクは爆音を上げて走り廻っている。活気があるというより、何か気ぜわしく落着かない。バイクの殆んどが進出日本企業の製品なので文句は言えないが、しばらく外を歩いていると喉が痛くなってしまう。昔、プチ・パリと呼ばれていた頃のサイゴンの面影は、街路樹の豊かな場所などにその名残りを残すが、全体としてホーチミン市は発展途上国の「けたたましく埃っぽい街」といった印象である。急激な経済発展の歪が出て、貧富の格差拡大、麻薬、売春などがいま深刻な社会問題になっているが、一党独裁の政治体制に巣食う腐敗は最近ひどくなるばかりで、権力層や一部の富裕層に対する庶民の不満はかなり鬱積していると聞かされた。日本はベトナムにとって最大の援助国で、例のODA資金が病院や道路・トンネルなどに有効に使われている話も聞いたが、残念ながら他の多くの被援助国と同様、ODAに絡む腐敗の噂も囁かれていた。発展を続けていることは確かだが、共産党一党支配の政治・経済・社会体制はこれからどう進むのか。国家統一からやがて30年、ベトナムはいま難しい峠道に指しかかっているようである。

 私は1972年からの数年をたまたまグアムに住んで、年毎にエスカレートした北爆、米軍負傷兵のグアムへの緊急輸送、サイゴン陥落、そしてベトナム難民11万人のグアムへの大量避難、ボートピープルなど、ベトナム戦争末期の実体をグアムの側から実際に見てきた。それだけに今回の旅行では、30年前のベトナム戦争というものが、現地ではどのような形で残り、現在どのように扱われているのか見てみたいという気持ちは強かった。しかし、実際にホーチミン市の統一会堂、戦争証跡博物館、クチの有名なベトコン地下トンネル網などを見学していると、勉強にはなったが、何故か重苦しい気分になるばかりで、戦争の傷痕を観光資源にすることへの疑問を改めて感じてしまった。戦争が生んだ悲惨さを強調したり、ベトナム民族の不屈の精神と勇敢さを称えることは、社会主義政権の姿勢として致し方のないことなのだろうが、日本人観光客が大半を占めるホーチミンとその周辺の観光では、「暗さを見せる」戦争関連のオプション・ツアーが大きな位置を占め過ぎているように思う。やはり、旅は明るく楽しい方がよい。その点、かっての宗主国フランスからの観光客は、最初からホーチミン市やベトナム戦争には興味を示さず、フエやホイアンなどの世界遺産・歴史遺産中心の行程を楽しんでいた。癪に障るがやはり日本人観光客より彼等の方が文化レベルが高いのだろうか。


P.S.
 昨年の11月末に訪れたベトナム、その「光と影」、つまりベトナムの暗い面と明るい面をちょっぴり覗いてきた体験記です。実は帰国直後の12月、書き始めたところへあの大型台風ポンソナの襲来でストップ。以来そのままになっていたものを何とか纏めました。 イラク戦争やSARSの発生などで、東南アジアの観光事情もその後大きく変化していますが、参考までにご一読いただければ光栄です。

2003年4月15日 小林正典



11月21日(木)出発・アオザイの国へ

 成田空港に朝9時までに集合するのは楽ではない。かなりの早起きを強いられたのだろう、みんな少々寝不足の顔で集まって来た。今回の旅は大学同窓会関係の仲間と行くツアーである。総勢は19名だが私を含め高齢化社会を反映して平均年齢は相当に高い。

 ベトナム航空951便は予定通り午前11時に離陸した。機内を見渡すとボーイング767の座席は満席に近い。最近ベトナムへの旅行者が急増していると聞いていたが、なるほど乗客の8割以上がツーリストである。中国旅行などに較べると、若い女性客もかなり多い。
ワイン・レッドのアオザイを着こなしたフライト・アテンダントの動きが目を引く。アオは着物、ザイは長いという意味だそうだ。わき腹に届くまで深いスリットを入れたスリム・カットの上着が、彼女たちの体の線を浮かび上がらせている。上着の下にはロングパンツを履いているが、上着のスリットの切れ目から、わき腹の白い肌をちらっと覗かせているところが心憎い。
約6時間ほど飛んで、午後6時にはホーチミン市に向けて着陸態勢に入った。時差は2時間、現地時間では夕方の4時である。広大なメコン・デルタ地帯ととやらを上空から眺めて見たかったが、雨雲が厚くてなかなか下界が現れない。やっと雲から抜け出したと思うと、眼下にはもう緑の原野が広がっていた。空港を囲むフェンスなどは特に見当たらず、自然のままのだだっぴろい原野がそこにあるだけだ。だが、それがもうタンソニァット空港そのものであった。降りてみるとあたり一面に田園の臭いが充満し、滑走路の向こうにはみすぼらしいバラックの民家が点在している。いきなりベトナムの貧しさを見せつけられたようで、旅の第一歩としてはいささかショックであった。

 列に並んで入国手続きを待っていると、急に雷鳴がとどろき猛烈なシャワーがやって来た。バケツをひっくり返したようなという表現があるが、まさにその通りで、窓の外は視界ゼロの大雨となった。空港の屋根がトタン張りのため雨音の響きがまた物凄くお互いに話も出来ない。大声で怒鳴りあっているうちに6時間のフライトによる体の凝りも解けてしまった。一段と高いブースに座っている入国審査官は、北朝鮮や中国の軍服によく似たカーキ色のユニフォームを着て、大きく反り返った将校帽をかぶり威張りくさっている。仕事も遅いしにこりともしない。待ちくたびれた我々が列を乱すと、手を振り上げ「まっすぐ並べ」のジェスチャーをしてこちらを睨んだ。やはり、この国の役人は社会主義国の伝統をしっかりと守っているらしい。

 先程の猛烈なシャワーも止んだ。迎えのバスに乗込み空港からホーチミン市内へ向かう。折から夕方のラッシュで道路上はバイクとスクーターで溢れかえり、それらがまるで大河の如く流れて行く。空港から市内までは8キロ程だが単車の群れに囲まれながら20分ほど走ると目的のリジェンド・ホテル・サイゴンに到着した。ホテルはサイゴン川に沿ったトンドクタン通りに建っている。敷地も広く眺めも良さそうだ。開業後一年とかでまだ新しく、リゾート感覚のロビーなど全体に贅沢な造りである。日系企業の経営で日本人スタッフも数人居り、我々のルーム・アサインメントも日本人の女性スタッフが担当した。

 ひと休みしてからSONG NGUという海鮮レストランへ夕食に出かけた。市の中心から八月革命通りを西に進み、背の高い街路樹が並ぶ横丁を入った所にそのレストランはあった。店名は二匹の魚という意味だそうだが、200席近いテーブルはぎっしり埋まっている。卵スープ、車えび、蟹、蛤の丸焼き、最後にシーフードのおじやを食べる。味は悪くはない。ビールは333(バババ)ビールを飲む。55年にベトナム語科を卒業した同窓のH氏も同席してくれたが、店内が余りにも騒がしくて会話を楽しめなかったのは残念だった。H氏は航空会社を辞めて、いまは日本語学校の教師として活躍しているとのことだった。

 明日はベトナムの最後の王朝となったグエン朝(1802〜1945年)の都として、150年の歴史を刻んだフエの町を訪ねる。しかし、国内線の飛行機の都合なのかヤケに朝が早い。4時のモーニングコールである。ガイドのテム君が教えてくれた現地語、シン・チャオ(こんにちは)、シン・カムオン(どうも有難う)を反芻しながら早めにベッドに入った。


11月22日(金) 世界遺産の古都・フエを訪ねる

 4時きっかりにウエイクアップ・コールで起こされた。体がきつい、眠い。ルームサービスで届いた洋朝食を無理やり胃の腑に突っ込んで、5時にはもう空港に向かって走り出していた。6時20分発の国内線に乗るのだが、セキューリティーチェックが厳しいので、1時間前にはチェックインしないと駄目なのだそうだ。ガイドのテム君がいきなり「最近、ベトナムでは離婚が非常に増えてます」と言った。何で朝の暗いうちから離婚の話なのだ。彼は昨夜夫婦喧嘩でもしたのだろうか。バスを飛ばして何とか空港には間に合ったが、なるほど搭乗口に辿り着くまでに3ヶ所もパスポート・チェックの関所があった。これでは時間がかかるわけだ。

 ベトナム航空250便エアバス300は機の右下遥かに南シナ海を望みながら北に向かって飛び、1時間20分後にはフエに着陸した。天気は雨模様である。フエを案内してくれるガイドのチャン君に迎えられてバスに乗り込む。チャン君は26歳の中国系ベトナム人だが、声がよく日本語の発音がきれいなのに感心する。大雨で農業用水路が氾濫したらしく道路の両脇の田んぼや畑は一面水浸しになって白く光っている。バス道路もところどころ浸水しているため徐行を余儀なくされる。町を貫いて流れるフォーン川も茶色く濁り水かさを増している。

 歴史の町フエは1993年にベトナムで初の世界遺産に指定されたが、人口30万人のこの町に大学が5つもあるため教育の町と言われ、また寺院が70以上もあるため仏教の町とも言われる。民俗衣装のアオザイも16世紀頃にフエで生まれたとかで、アオザイ発祥の地とも呼ばれている。チャン君が面白いことを言った。「フランス人観光客はサイゴンには興味を示さず、ほぼ全員がフエにやって来る。日本人観光客はサイゴン大好きで、あまりフエにはやって来ない。」のだそうだ。
フォーン川沿いの泥んこ路を走り、途中、床下まで浸水した貧しい家が並んでいる部落をぬけて、バスはティエンムー寺という古寺に到着した。参道入口でバスを降りると小雨が降っている。すると急に物影から少女が飛び出してきて、青色のビニールのかっぱを買ってくれとせがむ。1米ドル払って買ってみると、大きなビニールシートの真中に首をつっこむ穴が開いているだけの到ってシンプルな代物である。早速試着してみると、昔の漫画「黄金バット」ならまだいいが、まるで蝙蝠のオバケのようになってしまい、思わず吹き出してしまった。本来これはバイクや自転車に乗る人のためのカッパらしい。
寺の入口には高さ22mの七層八角形の塔があった。その塔は慈悲の塔と呼ばれ、シルエットが美しいためフエのシンボルと言われているそうだ。確かにバランスの良いその姿を眺めていると気持ちが落ち着いてくる。不思議な静けさを秘めた塔である。お寺の敷地は広く、鐘楼、寺子屋教室、若い修行僧の住まいと勉強部屋、釈迦堂などが点在して、全体に公園のような雰囲気だ。ダンフン寺という名の釈迦堂の隅に古ぼけた一台の外車が飾ってある。それはベトナム戦当時、南の政府と米国に抗議してサイゴンで焼身自殺を遂げたこの寺の住職が、いよいよサイゴンに出かけるその朝、乗って行った記念の車であった。

 ティエンムー寺の次は、旧市街の中心にあるグエン王朝の王宮を見学した。
先ず、フォーン川沿いにはベトナム国旗を高々と掲げたフラッグタワーが聳え、大砲座、王宮門へと続いている。王宮は4本の川を上手く利用した天然の堀に囲まれ、更にその内側に人工の内堀を掘って固めている。王宮門は石で出来ており入口が三つあるが、中央の入口は皇帝以外は絶対に利用できなかった。がっしりとした石造りの門の上には中国風の楼閣が乗っている。楼閣に登ってみると、フランスからの観光団が神妙な顔をしてガイドの説明に聞入っていた。楼閣の上からは王宮の全体像がつかめて誠に眺めが良い。城内の蓮池を渡ってくる涼風も肌に心地よい。ガイドのチャン君の説明だと、この王宮門の修復には日本のODA資金が使われたらしい。ベトナム戦後の復興援助の一環なのだろうが、こんな所にまで日本人の税金が使われていることを、かっての宗主国フランスの人達にも是非知ってもらいたい。だが、そんな標示は見当たらない。

 楼閣を降りて正面の大きな建物に向かう。屋根の上に色鮮やかな龍の飾りが乗っている。これは太和殿といって国王の即位式などに使われた建物で、デザインは中国の紫禁城を真似て造られたそうだ。しかし、その規模においては紫禁城とは較べるべくもない。実は、太和殿もベトナム戦で完全に破壊され、現在の建物は70年代に再建されたものだそうだ。骨董美術品で有名だった長生殿やグエン朝の菩提寺なども王宮内にあったが、いずれも戦火で焼かれ、現在のものは戦後再建されたものである。確かにフエは王朝時代の夢の跡を偲ぶ歴史的建造物に富む町ではある。しかし、戦後に再建・復元されたものが意外に多いことを知ると、改めて戦禍の大きさが感じられ複雑な気持ちになった。
王宮見学の後はクラブ・ガーデンというレストランで昼食を摂った。鶯色の壁に白いテーブルクロスが映えるちょっとお洒落な店である。我々に続いてフランス人の団体がぞろぞろと入ってきて、店の半分以上を占領した。ボーイがフエには地ビールがあると言うので、早速注文してみたが全然美味くない。胃薬のような味だ。結局はすでにお馴染みの333ビールに落ち着いた。

 午後の観光はトウトゥック帝廟から始まった。日本の江戸時代末期に完成した廟だが、広大な松林の中に掘割を巡らしてハス池を造り、池の縁には釣殿を作ったり、夏の昼寝や夕涼み用の館を設けたりして、大富豪が遊ぶ別荘地のようなたたずまいである。きっと皇帝は釣りと昼寝を好む人だったのだろう。階段を登った所に寺があり、そのまた奥のまた奥に皇帝の墓があった。皇帝の埋葬方法についてチャン君から面白い話を聞いた。―――埋葬予定地に一本の導入路を造り、丁度魚の背骨の形のように、その通路の両側に何本もの穴を掘る。数人の選ばれた死刑囚が皇帝の棺を担いで導入路を進み、一本の穴を選んで棺を埋葬し、同時に他の穴も全て埋めてしまう。死刑囚以外この埋葬作業を見ることは許されない。そして埋葬が終り次第、作業をした死刑囚は全員死刑執行される。こうして皇帝の棺が何処に埋められたのかを隠蔽し、墓が盗掘されるのを防いだのだそうだ。

 次はカイディン帝廟を訪れた。12年かけて1931年に完成した廟だが、この頃になると、すでにグエン王朝はフランスの植民地政策によって骨抜きにされ政治の実権を失っていた。廟の建築や内部の装飾、家具などにも西欧化の影響が色濃く出ている。特に陶版を張った天井はステンドグラス風で見事だった。次第に形骸化していった王朝だが、芸術文化の面ではかえって洗練され、高度になって行ったらしい。皮肉だが頽廃が新しい宮廷文化を育んだのだろう。

 歴史を離れて、少し現在の庶民の生活を覗いてみようと、フォーン川の川岸にあるドンバ市場へ回ってみた。コンクリート2階建てのかなり大きな市場である。食料品や雑貨などがわんさと並べられ活気に満ちているのはいいのだが、子供から大人まで、売子がひつこく付きまとうのには閉口した。落ち着いて商品など見させてくれない。帽子を買えと追いかけて来るオバサンを振り切って2階へ上がってみる。2階は繊維製品や生地類、家具などを並べている。うずたかく積まれた商品の間を歩いていると、何故か急に停電である。真っ暗の中をやっとの思いで階段まで辿り着きホッとしていると、後ろから声がかかった。振り向くと魔女のような老女が立っていた。ズボンを買えと盛んに勧める。停電中でも商売を忘れないその根性は見上げたものだ。暗闇の中で魔女に食い殺されないうちに急いで階段を下りた。後で聞いた話だが、ドンバ市場はスリが多いことで世界的に?有名なのだそうだ。何はともあれ停電の中でポケットのサイフが無事であったのはよかった。

 我々のグループはフエ市内のホテルが満員のため、今夜はフエとダナンの中間にあるランコビーチ・リゾートまで行って泊る旅程になっている。折からのにわか雨の中、バスはフエの町を離れた。軒先に色とりどりの細い棒の束を並べている民家が目に付く。チャン君に尋ねると、それは線香を作って売っている家だった。日本の線香よりずっと長く色も多彩である。バスは山あり丘あり水田ありの典型的な中部ベトナムの農村風景の中をひた走る。道が悪いので余りスピードは出ない。ぽつんぽつんと貧しそうな民家が見えるが、外はそろそろ暗くなるのに灯りが灯る気配がない。この辺りはまだ電気が引かれてないのだろうか。途中、国道一号線の拡幅工事で徐行したところも多かった。この国の道路整備はまだまだこれからのようだ。やがて道は山に入り、遠くに夕暮の海を見下ろしながら山を下り、夕5時半、暗くなる直前のランコービーチ・リゾートに到着した。ここはランコー村という鄙びた漁村だったが、最近その素晴らしいビーチを活かしてリゾート開発が進んでいるとのこと。しかし、チェック・インをした頃には辺りはすっかり暗くなってしまって何も見えない。聞こえるのは波の音だけ。何か騙されたような気分である。ホテルはコテージ式でゆったりしているが、コテージ毎に取り付けてある湯沸し器の具合が悪い。食事に出かける時間に遅れるので、殆んど水のままのシャワーで我慢した。


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