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| 日本人会30周年特別企画 「グアムと私」 大竹憲一 |
| 12月/02 |
| グアムに感謝 グアムで暮らし始めて12年近くになりますが、グアムとのかかわりは長く、最初に訪れたのは1972年の事でした。当時、(財)日本海事広報協会が発行していた月刊「海の世界」の編集部にいましたが、トラック島の取材を終えトランジットでグアムに一泊しました。これがグアムとの出会い。クリフホテルに泊まりレッドカーペットのバーで飲んだ事を良く覚えています。その後も5回、6回は島での取材を終えてグアムに立ち寄っていました。短い滞在時間を利用して、今はなき「タウンハウス」「ギブソン」や「エースハードウェアー」巡りがお決まりのコース。日本では味わえないアメリカの生活が肌で感じとれたからです。そしていつも買って帰ったのは、“SEA BREEZE”のローション。その後日本でも発売されるようになりましたが、当時は日本で手に入らない貴重品で、私にアメリカを感じさせてくれる一品でした。 本格的に、取材でグアムに来るようになったのはマリン企画で「ダイビングワールド」を創刊した1975年以降になります。この当時はミクロネシアのダイビングと言えば、トラックやパラオを始めとしてサイパンの方が圧倒的にポピュラーな時代でした。理由はいたって簡単、トラック島は沈船ダイビングのメッカとして知られていたので別ですが、パラオとサイパンは日本人経営のダイビングショップがあって受け入れ体制が整っていたからです。とはいってもまだまだ海外でのダイビングツアーは、今ほど一般的ではない時代でした。ちなみに、グアム3泊4日のダイビングツアーが、安くても9万円近くもしていたのだから当然といえば当然のこと。 ダイバーや釣り人から「昔は良かった」と言う話を聞きますが、ことグアムのダイビングに関しては、20数年前に比べると現在の方が数段良い感じがします。取材に訪れてもポイント情報が少なく、ブルーホール、ハップスリーフ、アプラ湾内の沈船といったところで、西海岸サイドのポイントの情報はほとんどなかったからです。海中でダイバーが見れる範囲は限られていますし、何よりもポイントの開発が大切なので、いくら自然が残っている時でも、やたらと潜って魚と会える訳ではないのです。ダイビング愛好者の増加に伴って、新しいポイントが開発されたことで、より幅広いダイビングが楽しめるようになったのです。 思い出のグアムミーティング 1977年の秋に、GVBが中心となって米国商務省観光局(USTTA)とコンチネンタル航空の協力を得て、USTTAのメンバーだった編集者に声を掛けグアムで一大ミーティングが行なわれた事があります。集まったのは、集英社「週刊プレイボーイ」、平凡出版(現マガジンハウス)「ポパイ」、小学館「女性セブン」、講談社「ヤングレディー」、舵社「舵」、つり人社「つり人」、鎌倉書房「スポーツノート」、マリン企画「ダイビングワールド」等々。他にも「ジュノン」を始め何社か参加していました。こうしてみると時代を感じさせるし、逆に今はなき雑誌名に懐かしさを覚える人もいるに違いありません。それぞれの雑誌が得意の切込み方で、いっせいにグアム特集を紹介したのだから画期的な取り組みだった訳です。後にも先にも、これだけ多くの雑誌社の編集スタッフがグアムで一堂に会した事はないと思います。 我が「ダイビングワールド」は、翌年の6月発行の別冊「ミクロネシアの海と島」の中でグアムを紹介しました。今までに何百冊もの雑誌に携わってきましたが、その中でも特別に印象に残る大切な一冊です。かつては取材の場として、現在は生活の場として私の人生を占めているグアム。「ありがとう!」 |
