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「多彩な国・タイ探訪」 小林正典
12月/02

3月11日(月) アユタヤ観光

 朝7時まえに迎えに来たW旅行社の車に乗り、市内のホテルに集合。今日のアユタヤ日帰りツアーのお仲間は中老年カップル2組、ヤングギャル風が2名、学生風男性4名、気取り屋の30代女性1名の合計11名である。マイクロバスに乗り込み、バンコックの北75キロのアユタヤに向け8時半きっかりに出発。 市内は月曜日の朝の大渋滞がすでに始まっている。バンコックでは車の数はすでに一家に2台平均まで増えてきているそうだ。それプラス単車の数が半端ではない。やっと渋滞を抜け出しハイウエイに乗った途端、ドライバーは飛ばすこと飛ばすこと、こうなれば彼に命をあずけるしかない。今朝も例によって春がすみで視界不良。郊外へ出ても景色は余り楽しめない。

 1時間ほど走って「バン・パイン宮殿」というところに着いた。ここはアユタヤ王朝26代のプラサート・トーン王が「夏の宮殿」として1632年に建造したもので、以来歴代の王やお妃たちが避暑地として優雅に夏を過ごした所である。敷地内を流れるチャオプラヤー川の中州には、王族が納涼の宴に使ったというタイ様式のパビリオンが建っている。艶やかな色彩のパビリオンは水に姿を映して、一層その美しさを際立たせている。金色に輝くタイ式宮殿、フランス式宮殿など敷地内には宮殿が幾つもある。なかでも華僑たちが王に贈ったという真っ赤な中国式宮殿がひときわ目を引くが、これは派手すぎて品格がない。宮殿を後にして更に北へ20キロほど走ると、車は早くもアユタヤの街に入った。
アユタヤ王朝は14世紀に生まれたが、17世紀にはこのシャムの首都アユタヤはロンドンやパリをも凌ぐ大都市にまで発展していた。周囲をぐるりと3本の川に囲まれた街は、東西7キロ南北4キロのちょうど島のような形をしている。その水運の良さを生かして、日本やアジアの国々はもちろん、イギリス、フランス、ポルトガル、スペイン、オランダなどと広く交易を交わし、当時はまさに東南アジアの国際貿易の中心都市であった。
バスに乗ったり降りたり、午前中に主な遺跡やお寺をまわる予定なのでかなり忙しい、そして暑い。名前は忘れたが身長30m位ある巨大な涅槃仏が炎天下に横たわっているお寺や、ビルマ軍によって破壊された大仏の頭部を、太い幹に挟み込みながら成長を続けるマハタート寺の不思議な大木や、いまは見事に何も残っていない王宮跡地などを見て回る。

 度重なるビルマ軍の侵攻と破壊によって、33代400年以上続いたアユタヤ王朝も1767年遂に終焉をむかえた。訪れるすべての史跡で、仏像の首という首は飛び、仏塔の先端は打ち壊され、王や王妃の墳墓は暴かれている。いま世界遺産に指定されたこの地だが、辛うじて残るサンペット寺の3基の仏塔など、豪奢華麗だった都の往時を偲ばせる事物は極く少ない。徹底して破壊された王宮跡地などは、もはや哀れを超えて唯あきれるばかりの風景である。アユタヤとは平和という意味だそうだが、首の無い仏像の蔭で汗をぬぐいながら、私は急に人間嫌いになっていた。


日本人町跡と山田長政

 アユタヤ観光の最後は、町のいちばん南端でチャオプラヤー川の東岸にある日本人町の跡を訪ねた。そこはバンコックから川をさかのぼってアユタヤに着くと、最初にぶつかる町の入口部分に当る。1934年に泰・日協会が旧日本人町の一部3500坪を購入し、以後細々と管理してきたが、1990年の日・タイ友好100年を機会に、その跡地は公園風にすっきりと整備されたと聞いていた。

 しかし今来てみると、残念ながらそこは「寂しく荒れている」というのが第一印象である。手入れのされていない植栽、朽ちかけた祠と貧弱な石碑、タイでも日本でもない国籍不明の建物。町なかにあるアユタヤ歴史研究センターの別館が日本人町跡にもある、と観光ガイドがバスの中で触れていたが、この建物がそれだろうか?。

 建物の中には歴史研究センター別館と言えるような展示物は別になく、天井も低く狭い部屋に中に、山田長政の銅像だけが不自然に立っている。ガイドの話だと、当初、銅像は屋外に立てる計画だったが、地元の人びとの反対に会い、やむなく屋内に置くことになったとのこと。確かではないが、屋外にその台座だけはいまでも残っているらしい。

 屋内の窮屈なところに銅像が閉じ込められている理由が分かった。明治以来の南進論に後押しされて、戦前の日本では「海外に雄飛した江戸時代の英雄」として語られてきた山田長政だが、不幸にしてタイの人々には決して好かれる存在ではないらしい。
静岡県沼津で駕篭かきをしていた彼がアユタヤに渡って来たのは1612年らしいが、何をどうしたのかたちまち頭角をあらわし、4〜5年のうちに港を仕切る港務長となり日本人町の首領(町長)となり、ビルマ軍との戦いでは王宮の傭兵隊長として功績をあげ、当時のソンタム王から最高の官位を与えられるに到った。また、彼は軍事面での活躍だけでなく、アジア各地との交易にも力を注いで王家の財政を助け、ソンタム王の信頼は並々ならぬものがあった。
王の死後、王子派と王弟派との王位継承争いでは、王子派を担いで反乱を鎮圧し、その功により南タイ・リゴール藩の藩主(総監)の地位にまで昇りつめる。つまり、彼は異国の権力闘争のハザマをうまく泳ぎ渡って出世した訳だが、皮肉なことに、自分の領地を手にした直後に、王権奪取を企てた王侯の陰謀により毒殺されてしまった。
タイの人々から見ると、長政という男は武力を盾に権力と結びついて出世した好戦的な日本人。要領のよい侵略者というイメージが先に来るらしい。彼の像がコンクリートの建物から出られないのは、外国からの侵略に敏感なタイの人々の気持ちを考えると致し方ないことである。そして、もしタイの人々に本当に好かれない長政ならば、屋外、屋内を問わず彼の銅像を置くことはもう止めにした方が良いのではないだろうか。その方が日・タイ親善になると思う。

 「山田長政は英雄だ」という戦前の教育を受けた人たちも年々減っていくし、だいいち、いまの若い人達は長政など知らない人が多い。長政ときいて寿司屋の名前か山田錦で造った日本酒の銘柄と勘違いする馬鹿な若者もいるくらいだ。

 バケツのような面白い帽子をかぶった軍服姿の彼の銅像を見て、現に同行のヤングギャル2人も「この人誰、タイの王様?」「ちがうよ。日本に帰化した人じゃないの?」この程度なのである。―――長政の中途半端な立場にいささか同情していると、背後から声がかかった。あまり感じの良くない中年男性が「お土産はいかがです?」としきりに声を掛けている。見ると建物の奥半分はごたごたと商品を並べた垢抜けないお土産屋になっている。要するにこの建物は歴史研究センター別館ではなくて、山田長政がお手伝いをしている「長政みやげ店」である。この売店の収益がこの公園の管理にでも当てられているのだろうか?。観光客の側からすると、なんとなく胡散臭くて感じが悪い。

 ところで、泰日協会長ピア・マハイサワン氏の名前で30年前に書かれた「日本人町跡と長政」というチラシをガイドが配ってくれたが、脱字はあるし文章も古いし印刷も不鮮明である。文書作成月日は30年前の1972年12月11日である。過去30年間おなじチラシを配り続けているのだろうか。チラシの内容に間違いはないとしても、これでは観光客が少し可愛そうだ。この日本人町跡(公園?)の管理責任者が誰なのか分らないが、大使館、泰日協会、日本人会、旅行業界、ボランテイヤー、どなたでも結構だが、何とかして貰いたい。

 決して英雄ではないが、山田長政という人物は当時の日本人としては珍しく「国際遊泳術」に長けた男で、海外で活躍した日本人としては非常にユニークな存在である。世が世なら日本の外務省で是非仕事をして貰いたいような人材だ。冗談はともかく、すでに21世紀に入ったことでもあるし、この辺で日・泰両国がよく話し合って、山田長政についても改めて公正な歴史解釈と評価を与え、“仕切り直し”をする時期に来ていると思う。


リバークルーズ

 さて、帰路はバンコックまでチャオプラヤー川を船で下る。象に乗る人、買い物をする人など、自由時間を愉しんだ後、10kmほど離れた村の桟橋に向かう。アユタヤの象は我々がチェンマイで乗ったような探検スタイルではなく、派手に飾ったイスにカラフルな日傘をつけ、象の肩にもきれいな肩掛けを置いて優雅な王朝スタイルであった。今回はもう乗るのはやめて写真をとる側に回ったが、着飾った象が並んでゆさりゆさりと歩く姿もなかなか良かった。

 クルーズボートは2階建てのエヤコン付き遊覧船で、定員は100名ほど。座席は4人掛けコンパートメント式で、かなりゆったりしている。何台かの観光バスが集まってきて、乗客がどやどやと乗船した。日本、ヨーロッパ、中国からの観光客の混載である。これから約3時間のクルーズだが、川幅はこの辺でもかなり広い。水は濁っているが不潔な感じはしない。つややかな緑色の水草、ホテイアオイの塊があちこちに浮いてゆっくりと流れてゆく。遠くの岸辺にはジャカランダが淡いピンクの花を枝一杯につけて、ちょうど日本の桜の花を想わせる。船内ではビュッフエランチがはじまった。ごく普通の洋食である。同じコンパートメントになった中年のカップルは、10年以上前にバンコック駐在を経験したことがあり、今回はセンチメンタル・ジャーニーらしい。

 そのご主人が通りかかったウエイターに「カフェ」と声をかけた。コーヒーというと、女性の大事なところを指すタイ語と発音が同じで具合が悪いのだそうだ。本当だろうか?かって駐在経験のある人が言うのだから本当だろう。私も真似をして「カフェ」と言ってコーヒーを頼む。酸味の強いカフェである。

 17世紀、徳川の時代になると幕府は朱印船を海外に送り出して交易を盛んにし、また平和になって失業した多くの浪人たちが交易の仕事や海外傭兵の職を求めて日本を後にした。山田長政は浪人ではないが、そうゆう時代の波に影響されて大志を抱き、この川をアユタヤに向かって遡って行ったのだろう。

 灰色の大きな鳥が岸辺の木々にわんさと止まり、奇妙な声で鳴いている。船のボーイに尋ねると、毎年いま頃になると中国からやってくる渡り鳥だそうだ。何万羽と空が暗くなるくらい飛んで来るらしい。

 長政のタイでの活躍はあわただしく短かかった。港務長の役についた1617年に始まり1630年に死没するまでの、わずか13年間のことである。そして彼の死後3年、1633年に幕府は朱印船を廃止して海外との関係を断ち、日本は長い鎖国の時代へ入ってしまう。全盛時には3000人を超す住人が住んでいたアユタヤの日本人町も、日本との交易が途絶えてからは衰亡の一途で、1640年代になると現地社会に吸収される形で次第に消滅していった。―――もし、徳川幕府が鎖国政策を打ち出さなかったら、日本人町はどんな道をたどっていただろう。時代はずっと後になるが、明治になってからのブラジル、ハワイ、米本土などへの移民は、苦難を乗り越えて立派な日系人社会を築き、今はそれぞれの国に根を下ろし力を発揮している。アユタヤの日本人町は、「これから」という時に日本の鎖国政策で腰砕けになってしまったが、もしあのまま発展を続けていたら、やがては、タイのみならずインドシナ半島全域に大きな影響力を持つ日系人社会を築いて、その後の歴史の流れを大きく変えていたかも知れない。
元来はシャムの自由交易、自由居留策のお陰で生まれたとはいえ、アユタヤの日本人町は江戸時代に日本人が築いた唯一最大の海外拠点である。それが消滅してしまったことは、考えてみれば非常に残念なことだ。

 歴史に「もし」は無いが、川岸の田園風景を眺めながら、消えて行った日本人町を惜しんでいるうち、船のエンジン音の催眠効果で眠り込んでしまった。

 物音で目を覚ますと、川幅がまた一段と広くなり、両岸には高層ビルもぽつぽつ見えはじめた。バンコックが近いようだ。そろそろ夕映えが川面を薄紅色に染めはじめている。右岸には寺院の塔が幾つかシルエットを見せ、ラマ6世橋が見えてきた。やがて、クルントン橋をくぐると、船はいよいよ市の中心に入った。小型船にむき出しの船外機をつけたルア・ハンヤオ(ロングテール・ボート)やリバーフェリーが忙しそうに行き交う。左手にはエメラルド寺院や王宮のきらびやかな屋根が見える。やがて右手には三嶋由紀夫の小説「暁の寺」で知られるワット・アルンの高さ75mの大仏塔が迫ってきた。この船上からの景色はやはりバンコックならではのものである。感心しているうちに早くも船はリバーシテイーの下の桟橋に接岸した。―――旅は一期一会、きょう一日を共にしたツーリストたちも、迎えの車でそれぞれのホテルに散っていった。


足だけのマッサージ

 今宵は再びタイ式マッサージに挑戦する。ただし、先日のように荒技をやられると果たして生きて帰れるか心配なので、今回は足の裏も含めて膝から下だけのマッサージにすることに決めた。間違いのないよう「足をお願いします」というタイ語をマイに教わる。それは「チョワイノイナカ・カー」と言うのだそうだ。デンさんに送ってもらいながら、家内とふたり車の中でそのセリフを呪文のように唱え本番に備える。 やがてさる住宅街にある小奇麗なマッサージ屋に到着した。体のがっしりしたちょっぴり美人のお姉さんに「チョワイノイナカ・カー」と告げると、どうやら通じたらしい。低い椅子に座らされ、ズボンを膝上までまくって、お湯で両足を念入りに洗ってもらってからスタート。丁寧にていねいにフクラハギから揉みほぐしてゆく。足だけのマッサージでもたっぷり2時間をかけるのだそうだ。足の指を1本1本揉んでから、次は足の裏のツボをひとつひとつ短い棒で突いて行く。足の裏から全身にピリピリピリと響いてくる感触を愉しんでいると、「あっ痛いいいい!」急に激痛が走った。丁度、足の裏の中心辺りだ。彼女も驚いたような顔をしている。そこは何のツボだろう?。私の悲鳴を無視して彼女が同じところを2〜3回突くと、私の体からどっと汗が吹き出してきた。そして、それを確認すると彼女はやっと次のツボへ移っていった。何故あそこで激痛を感じたのか、体内のどこかが腐っているのか、その理由を彼女に確かめたかったが、何か恐ろしい答えが返ってくるような気がして結局尋ねなかった(この事は未だに気になっている)。料金200バーツ(600円)を払って帰って来たが、体が軽くなり、胃腸にまで効いたらしく急に空腹感が襲ってきた。

 早いもので明日はもう帰国である。今夜は専門業者から取り寄せた食材とメニューに従って、一家全員でタイスキを楽しむ。魚介類、肉類、野菜の寄せ鍋だが、やはり一家団欒は鍋物にかぎる。


3月12日(火) 帰国の日

 ドクターの許可が出てマイが松葉杖から遂に解放された。おめでとうマイ!さすがに本人も嬉しそうだ。しばらくは慎重に歩くようにと言われているらしいが、子供の骨の回復は早いのでもう心配ないだろう。ケガをしたことで、足の有難さや、身障者への接し方や、親切に助けてくれた友達のことや、いろんな事を勉強したに違いない。ただ、熟達したあの椅子ローラー走法だけは、今後あまり役には立たないだろうけど。―――きょうは夜の出発に備えて、昼寝したり本を読んだり散歩したりして休養。久しぶりにゆっくりした。

 さて、バンコック最後の夕食は、ソイ23通りのもう一つの高級レストラン「バーン・カニータ」で摂ることにした。日頃から塾、ピアノ、バレー、書道、コーラスなどとやたらめたら忙しいマイは、今夜も何かがあって夜まで戻らない。Bさんも仕事で遅くなるので、娘と家内と私の3人だけで出かけた。秋篠の宮もご贔屓のこのタイ料理店バーン・カニータは、古い邸宅を改装したようなシックな外観である。また磨きこんだチーク材を使った内装は、どこか落着いた田舎の旧家を連想させる。空港に行く時間の関係で、余りゆっくりもしていられない。ヤム・ソムオー(ザボンのサラダ)、ヤム・ムアプー(蟹のツメのような形をしているタイ野菜のサラダ)などの軽いメニューを、既にかなりタイ料理通の娘がオーダーした。体調も良く無事に旅程をこなすことが出来た満足感・安堵感と、明日は娘たち家族、特にマイともまた暫くお別れだというセンチメンタルな気持ちとがカクテルになって、シンハビールやタイウイスキーのメコンを少し飲みすぎてしまった。――だが、一つだけ鮮明に覚えていることがある。それは、先日訪れたアークスという民芸品店で印象に残った木彫りの人形、あの鼓を打ちながら踊る楽士の人形とまったく同じ人形が、バーン・カニータの柱にさりげなく飾られていたことである。なんだか懐かしい人に再開出来たようで嬉しかった。(この木彫り人形は娘から記念にと言って後日グアムまで送られてきて、我が家の壁を飾っている。)

 アジアでも有数の国際空港であるドン・ムアン空港は、今夜も人でごった返していた。3階の出発ロビーで記念のスナップ写真をお互いに取り合い、最後は通りがかりの男性をBさんが呼び止めて、全員一緒にカメラに収めてもらった。わが人生の貴重な一瞬である。ゲートに入っていく我々にマイが背伸びして手を振っている。背伸びが出来るくらいなら、足の骨ももう大丈夫だろう。

 あと2〜3年もすれば、背伸びなどしなくてもママより背が高くなって、もうママの言うことなど聞かなくなるに違いない。果たしてどんな女性に成長して行くのか、楽しみでありまた心配でもある。

 ANA916便午後11時20分バンコック発東京行き。機材はボーイング777.驚いたことに、搭乗するとまだ離陸前なのにTVスクリーンで機内免税販売の宣伝を盛んにやっている。フライト・アテンダントによると、深夜便の場合は離陸後はすぐ就寝時間に入るため、早めにお知らせしてますとのこと。機内免税販売には機内でしか買えない商品がかなりあるので、マニヤを中心に深夜でもかなり売れるらしい。商売、商売、なるほどANAのサービスはきめ細かい。

 機内は間もなく静かになった。帰りは追風なので6時間で成田に着くだろう。12日間の旅を反芻しながら眠りに着くとしよう。――蒸し暑さ、渋滞、排気ガス、人間関係、いろいろ大変な事はあるだろうが、基本的にはなに不自由ないマイたちの生活を見て安心した。

 滞在中マイが「おじいちゃん、おばあちゃんは旅行ばかりしてないで、もう少しマイの家に居ればいいのにーーー」と何度か擦り寄って来てささやいた。振り返ってみると、以外にマイと過ごした時間は少なかった。
「マイ、ごめんね」「この次はもっとゆっくり人生ゲームをやろうね」

 マイは日本から連れて行ったウサギのレモン君とハムスターを飼っていて、毎日良く面倒をみているが、先日、車の中で友達のことを話題にしていた時、彼女がこんなことを呟いた。
「Aちゃんは兄弟が3人いるけど、私の兄弟はレモンとハムスターだね」
勿論、本人はただ無邪気に言っただけだが、それだけに、このセリフは祖父の私には少しばかり重く響いた。マイがもう少し大きくなり一人っ子の自意識に目覚めた時、もし必要とあれば私はこう言うだろう。
「マイ、世界中に一人っ子は沢山いるし、これからますます仲間は増えると思うよ。だから、世界中の一人っ子はみんなあんたの友達だと思って頑張りな」――しかし、時代も変るし、社交的な性格の彼女のことだ、ジイさんが余計な心配しなくても大丈夫だろう。ただ、ビリオネアーにはならなくてもいいから、21世紀、彼女の本物の「人生ゲーム」が幸せに展開することを祈っていよう。

 ところで、19世紀から20世紀へかけて、西欧列強の植民地主義の嵐の中で、アジアで独立を守った国は日本とタイだけである。日本は島国という地理的利点もあったが、タイは地理的には日本よりずっと厳しい立場にある国である。それにも拘わらず、立派に独立を維持出来たのは何故なのだろう?

 長い歴史の流れの中で、ビルマやクメールによる侵略で舐めた苦汁、また国内では、王朝が幾度となく移り変わった権力の変遷、アユタヤ時代以来経験を積んできた西欧諸国との交流など、このような過去の歴史体験から生まれた「民族の知恵とエネルギー」の成せる技なのだろうか。

 第二次大戦に於いても、共に独立を守ろうと、タイは随分日本に加担してくれた国である。しかし戦況を分析し、終戦の2年前にはすでに密かにアメリカ、イギリスと講和の道筋を探って、無事に国の独立を守り通した。政治・外交におけるタイのこの“したたかさ”は見事である。そして、それだけにこの21世紀に於いても、タイが国際社会の中でどのような歩みをして行くのか非常に興味深いものがある。

 一方、文化の面でも、繊細で華麗な建築、陶磁器、織物、多種多様な食の世界、伝統を守りつつも常に自由な展開をする芸術・芸能の世界など、この国は何事も奥が深く実に“多彩”な国であることに感心させられる。

 サバーイ、サヌック、マイペンライ。この3つの言葉がタイ人の気質を一番よく表わしている、と或る旅行ガイドブックに書いてあった。今回の旅行でも行く先々で「元気で、楽しく、気にしない」で、毎日をしたたかに生きているタイの人々の知恵と活力に触れて、こちらも大分その“おこぼれ”にあずかったような気がする。

 さて、すでに機内は明りも消え、寝静まってしまった。私も成田空港到着までひと眠りすることにしよう。おやすみなさい。

(おわり)

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