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「ヤップ島−ミクロネシア最後の秘境」 小林正典
10月/01

 ボートはマアプ島の東岸を南下して、鮫がいるというムングイ湾に入って行く。そこは大きな内湾だがかなり強いトレードウインドがボートの後ろから吹きつける。やがて、船が右に曲がったと思うと急に静かな入り江に入った。マアプ島とその南側のトミル・ガジルとの間の大きな水路に入ったのだ。再び両岸はマングローブになり複雑に折れ曲がった水路は、幅も広くなったり狭くなったり、中之島があったり実に変化に富んでいる。ここはカヤックやカヌーで遊ぶには理想的な環境だろう。小魚をついばみに来る白鷺のような鳥や色とりどりの蝶々や花々に見とれているうちに、ボートは朝がた通過したテグレン・チャネルに朝とは逆の方向からすべりこみ、そこを貫けると一路コロニアの港に向かってスピードを上げた。―――  残念ながらマンタには遭遇出来なかったが、ヤップ島独特の自然を走るマングローブ・クルーズ、実にうまそうな魚たち、雄大な珊瑚礁に白く砕ける波涛、エメラルド色に輝く広大な内海の眩しさ、インクブルーの水平線などなど、大自然の(静と動)の中に身を投出したようなこのクルーズは実に素晴らしいものだった。勝手な願いだがヤップよ何時までも「秘境」で居てくれと願いたくなる。チョメイとヴィンセントの二人も(とてもいい奴)だった。

 桟橋のすぐ傍のレストランで昼食。乾いた喉にビールがしみる。スーさんが手配して呉れたという国籍不明の幕の内弁当が出てきたが、ハラペコだったので何とか胃袋に納まった。気が付いたら、このレストランはきのうボーイが出てきて桟橋で釣をしていた私を怒鳴りつけた店だった。いま私は客としてここに来ているのに、残念ながら彼の姿はない。弁当の残りを試しに例のテラスから投げてみて驚いた。まるで池の鯉みたいに、15センチから20センチ位の魚がわんさと寄ってきて、テラスの下で渦巻いているではないか。―――  これではきのう釣れる筈もなかった。さあそろそろホテルに帰って昼寝でもしよう。夕方から又カルチャーツアーに出かけなければならない。


「カダイ村へのカルチャーツアー」

 ネイチャーズウエイ社のスーさんが小さなワゴン車で迎にきてくれて、予定通り午後4時半カルチャーツアーに出発。目的地のカダイ村は島の西海岸にありヤップの伝統文化保存に熱心な村だそうだ。青年協力隊のT嬢もまだこの種のツアーに参加したことがないとのことで、スーさんに誘われ同行することになった。生活習慣、伝統手芸、伝統舞踊などを本物の村の環境の中でデモンストレーションしてくれるというので楽しみだ。

 カダイ村までは30分程のドライブだが、途中山中の盆地にプレハブ校舎のような大きな建物が立っているのが見えた。周囲は殺風景なフェンスでしっかりと囲まれている。スーさんの説明によるとこれがアメリカン・アパレルの全寮制工場とのこと。いわゆる「女工哀史」、昨日リチャードが話していた中国人女性たちの出稼ぎ工場だった。

 車の中でT嬢から海外青年協力隊の話を聞いた。彼女はいまヤップ州政府の経済統計局で働いており、税収予測や予算立案の基礎となる各種の経済統計を纏めるために、過去から滞積してわんさと積み上げられているデータを横目に、毎日コンピューターと格闘しているとのこと。米国との協約に基ずいて入ってくる所謂コンパクト・マネーもここ数年次第にカットされているため、FSM政府もリストラを余儀なくされ、ヤップ州政府でも人減らしがあったそうだ。そこで、彼女のように人件費JICA持ちで働いてくれる人は非常に有難い存在らしい。T嬢を入れて今ヤップには10人近い隊員が居り、野菜作り、小学校の先生、漁業指導、看護婦などの仕事で頑張っている。
昨年のヤップへの観光客数はダイバーを中心に年間四千人だが、ヤップ州観光局発行のパンフや地図も日本語の気が利いたものが出来ていた。実はそれも昨年帰国した隊員の制作指導によるものと聞いて納得した。

 協力隊の派遣期間は2年間。最近は希望者が後に控えているので延長を希望してもなかなか認められないらしい。国内給として月10万円が積み立てられるので、帰国した時は200万以上の貯金が出来ていることになるが、日本での再就職に苦労する人も多いとのこと。派遣先の国での現地給は夫々の国の民度によって決められるが、ヤップの場合は月500ドルなので決して無駄使いは出来ない。但し、アパート代などの住居費はすべて公費でカバーされる。ヤップの場合は住居費の9割弱をJICAが払い、ヤップ州政府の負担は1割強とのこと。州政府にとっては非常に有難い人的経済援助である事が分かる。

 海外青年協力隊について勉強しているうちに車は目的地に着いた。白人の観光客を乗せたマイクロが2台ほど先に来ている。車から降りたが別に村落らしいものは見えない。不思議に思っていると、木陰から伝統のグラススカートを着けたトップレスのウラ若い娘が現れた。やはりトップレス・スタイルは形の崩れていない若い女性に限る。「これからヤップ伝統の石畳の道を通って皆様をカダイ村までご案内します」と彼女が英語で恥ずかしそうに言った。

 昔、ヤップの人達が村々を裸足で移動するために造ったという石畳の道は、いまは通る人も少なくジャングルの中ですっかり苔むしている。石畳と言っても不揃いでかなり大きな石を敷いているので少しごつごつしているが、裸足はともかくスニーカーでなら楽に歩ける。苔むした木漏れ日の小道。どこか京都の古いお寺の庭でも歩いているような気分だ。ガイド嬢が皆を誘導しながら、道端に生えているフルーツの木や月桂樹などの香木、そして島で一番大きなガジュマルの木などの説明してくれる。20分ほど歩いてカダイ村に着いた。

 村の中心に位置するペバイの前庭に大人や子供たちが集まって、ダンスや手芸デモンストレーションの準備を進めている。女性は全員トップレス、男性はフンドシだ。伝統の踊りは小・中・高の子供たちがやるらしい。スーさんの案内で村の中の豚を飼っているところや、昔のカダイ村の男の家の土台跡などを見て歩く。豚の餌場には半分に割った椰子の実がごろごろ置いてあり、如何にも固太りの健康そうなブタが眠っていた。

 やがてダンスが始まりペバイの前の幅5Mくらいの一本道を、右前方から二列に並んだ子供たちが歌い踊りながら近ずいて来る。男女半々で約20名、自分は踊らないがひとりの中年女性が掛け声を掛ける。この人が総指揮者らしい。それとは別に、MC役のおばさんが大きな声で説明した。ヤップには地域・部落によりいろんな踊りが有るが、踊る時に唄う唄はその都度一つの物語を語っているのだそうだ。「本日、踊りながら唄う唄はあの第二次大戦中2万人以上の日本軍が島に押しかけて、島民が非常につらい想いをした日々のことを物語りにしたものです」「どうぞごゆっくりお楽しみ下さい」。―――  白人のお客さまは同情心を顔に表しながら全員拍手したが、スーさんも入れて我々日本人4名は下を向いて小さく拍手した。全員竹の棒を持ちそれをチャンバラのようにぶつけ合いながら踊る。男性のフンドシの長い後垂れがひらめき、女性の長くふっくらした腰蓑スカートがゆらめく。若い素肌に汗がにじみ、歌に乗って同じ動作を繰り返しながら次第に一種恍惚の境地に入って行く。

 踊っている女の子たちの首に、少し長めの黒い数珠のようなネックレスが揺れているのに気が付いた。MCおばさんに尋ねると、それはヤップで女性がトップレスになるときは必ず首に掛けるもので、言わば礼法上(上着)の代役をしている物だそうだ。従ってそれを着けて居れば、女性はブラジャーをしブラウスを着ているのと同じ心理状態になり、習慣上恥ずかしさは感じないのだそうだ。若い娘でもトップレスで堂々としている理由がそれで分かった。
ヌーデイストではちょっと困るが、この習慣なら日本の蒸暑い夏にも是非取り入れてもらいたい、などと勝手なことを考えているうちにダンスは終了した。

 約15分後私の周りをグルグル廻っていた風景がやっと静止した。体全体が何だかほんわかと暖かくなっている感じがする。ビンロウ樹を噛んでいると、長時間水に入っていても体が冷えないと聞かされたことがあるが本当かも知れない。まあ兎に角、このビンロウ樹酔いの体験は別の世界を覗いたみたいで貴重なものであった。今後は癖にならないように気をつけよう。

 ペバイの前庭では女性たちが地べたにどっかり座り込んで、椰子の葉でカゴを編んだり、現地語でニューニューという(頭飾り)をハランのような濃い緑の葉と花々を織り交ぜながら器用に作っている。少女たちが母親や祖母の横に座って真剣な目つきで作り方を学ぶ様子が微笑ましい。ふと私はふるさと伊豆の遠い昔にあったなつかしい光景の一こまを思い出していた。
ヤップの人たちは男も女も椰子の葉を編んで作ったハンドバッグやショールダーバッグを、10人中7〜8人は持ち歩いている。バッグにはその時々の流行もありいろいろなスタイルが生み出されているらしい。小物や弁当などもバッグに入れるが、なんと言っても一番大事なのは「南洋噛みタバコ」の3点セット、ビンロウ樹の実と石灰の粉とヤブイの葉だ。これを持ち運ぶ為に(椰子の葉バッグ)が発達したと言っても過言ではないだろう。
花の王冠ニューニューは簡単なものから凝ったものまで実にさまざまで、それは作る人のセンスや個性、腕の見せどころとなる。素晴らしいのが出来あがるとお互いに褒めたり自慢したりして楽しんでいる。

 大きな太陽が西に傾きやがて出発の時間が近ずくと、少女たちが出来あがったニューニューを我々ひとりひとりの頭に被せて別れの挨拶をしてくれた。
色とりどりの(花の王冠)はこのツアーの何よりのお土産である。夕映えの村を背景に村の人たちが並んで手を振っている。我々の車はカダイ村を後にした。

 帰りの車の中で、ヤップ島最後の夜のデイナーは何にしますかという話になったが、N氏と私の答えは迷わず「あの豚肉をもう一度」である。
そんな訳で車は一路Pathways HotelのPan Roast Porkめがけて走ることに決まった。Pathwaysのレストランには何故か4人掛けの東屋風の特別席がひとつだけ在るのだが、その晩は運良くその一番落ち着く特別席が我々4人を待っていた。―――  T嬢も含め3人は勿論ポークステーキを注文。スーさんはシェフに特別頼んで特製らーめんとやらを作ってもらう。その晩のポークの味はやはり我々の期待を裏切らなかった。2人の女性もそれなりにアルコール党だったので、生ビールのジョッキを空けながら四方山話に花が咲いた。

 しかし、その晩少し酔った勢いでスーさんの口から出た話題には気になるものが幾つかあった。それはODAつまり日本政府の海外開発援助にまつわる話である。数年前のことコロニアから大分離れた或る不便な部落に工期1年もかけて製氷工場が出来たのだが、場所が不便だし島に氷の需要も育っていなかったのでさっぱり売れなかった。そのうちその製氷工場は台風に遭ってダメージを受け、修理計画もうまく進まず、結局はサビ付いて駄目になってしまった。

 もう一つの話。漁業振興のためODAで遠洋漁業用の漁船を2隻貰ったが、或る日その内の1隻が港から消えてしまった。目撃者の話によると、当時島にうろうろしていた2人の不良外国人が、朝暗いうちにその船に乗り込み出航して行ったそうだ。船の行方は未だに判らない。一昨日ドライブしたヤップの幹線道路のように、役立つているODAも確かに有るだろうが、この話は援助というものがそう簡単な仕事ではないことを物語っていると思う。

 また、歴史の教科書に関する話も気になった。ヤップ島の歴史に関する教科書の記述は、土地の人が纏めた内容が採用されることになっているが、9年生(中学3年生)の教科書にひどい記述があるのだそうだ。それはヤップ在住のさるアメリカ人が書いた文章だが、(戦争中に日本軍が島のあちこちに掘った防空壕は、島民を殺して埋めるためのものだった)と記しているとのこと。

 今日のカダイ村でのダンスソングの内容もそうだが、戦後この地域の覇権を握った米国が過去の日本を悪者にして、自分の国を正当化しようとする意図がどこかに潜んでいるのかも知れない。特にミクロネシアの年輩の人には戦争で迷惑を蒙ったにもかかわらず、教育面や文化面で未だに親日的な心情が強いし、若い人達にしてもODAや青年協力隊などで日本が実際に(金と人を使っている)ことを知り、好意を持つ人が増えてきている。この現実は国家戦略から見ても覇権国にとって決して愉快なことではない筈だ。

 今回、ODAや教科書問題の真相を探って歩く時間はもう無いし、いずれも真偽の程は判らないが、(無さそうな話)というより(有りそうな話)の匂いがして来る。しかし、所詮私はツーリスト。悪酔いするので深く考えるのはもう止めよう。今宵はこの辺で目出度くお開きとしましょうかーーー。

 今日はビンロウ樹に酔った。ビールに酔った。そして話題にも酔った。幸い、明日の出発は午後便だ。今夜はゆっくり眠ることにしよう。おやすみなさい。


「1月31日(水) サヨナラの日」

 この3日間昼も夜も良く動いたので、最終日の今日くらいは一流リゾートホテルの客らしく少し部屋で休養しよう。と言いながらもホテルの売店をうろうろと歩き回る。ヤップ島のものだけでなく他のミクロネシアの島々の民芸品や木彫りなども並んでいる。余り材質も形もよくないが珍しさにつられてタツノオトシゴの木彫りを買う。良く見ると私でも作れそうな幼い出来栄えだが旅の記念だからまあヨシとするか。

 心を入れ替え、ベッドでごろごろテラスでごろごろしながら、午前中は久しぶりにボケッとして過ごす。急にお腹が空いてきた。昼食を兼ねてもう一度コロニアの町に散歩に出ることにした。N氏が趣味の記念切手を郵便局でどっさり買い込んだ後はいよいよランチタイム。実は気になっている店が一軒ある。それはSAKURA-KAIという見るからに古いレストランで、土産物屋も併設している。先日来、何度も店の前を通りながら、というより一度などは夕食を食べようと店に入り、テーブルに座ってメニューまで覗いたのに、何故か急に気が変わって飛び出してしまった。日本語の標示が無いので、(さくら貝)なのか(さくら会)なのか分からないが、何だか悪いことをしてしまったようで以来ずっと気になっていた。私の気持ちにN氏も賛同してくれたので、遂に昼食はその店で取ることになった。注文はまたしてもポーク、しかしSAKURA-KAIの酢豚定食は上等だった。パラオ出身の老主人とおばさんも親切だった。主人は殊のほか旧日本軍に愛着を持っていて、自分がこの島で収集した日本軍の薬きょうや遺品などを見せてくれたり、毎年3月1日に開催される「ヤップの祭」のビデオも上映してくれた。まさに一期一会。やはりこの店に来てよかった。

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 午後3時過ぎチェックアウト。ホテルの車で空港へ。何処へ旅立つて行く人達だろう、皆それぞれ見送りの人にニューニューを掛けてもらい別れを惜しんでいる。親戚・友人たちに色とりどりの花の王冠を頭にのせてもらい、涙ぐんでいる赤ちゃん連れのヤップ人若夫婦。空港では何時もいろいろな人生の断片が見える。
手を振りながらスーさんとT嬢がこちらに近ずいて来る。しばらく立ち話。ミクロネシア最後の秘境ヤップ島の大自然を守るのだと、エコ・ツーリズムにますます情熱を燃やすスーさん。片やヤップの経済発展のため統計作業に汗を流すT嬢。―――  「環境保護と経済開発」この人類永遠のテーマを背負って歩いて行くご両人に幸あれ!! CO862便グアム行きはほぼ定刻通り離陸した。

(おわり)

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