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「モンゴルの旅 チンギス・ハーンのふるさとを訪ねて 5」 小林正典
4月/01

某月某日 カラコルム回遊の日

 明け方、何かの物音で目が覚めた。薄目を開けると、いつの間に入ってきたのかメイドさんがゲルの中央にある薪ストーブに火を入れている。30分程燃えて火は消えたようだが、日の出と共に気温も上がりそれ以上ストーブを燃やす必要は無かった。この夏は異常高温とのことだが我々にはそれが幸いして、以後キャンプ滞在中ストーブを焚くような寒さは来なかった。いつもの年だと夏の平均気温は18度、夜は10度を切ることも珍しくないそうだ。半円形に開けられたゲルの小さな天窓から見える青空がまぶしい。今日も快晴。暑くなりそうだ。

 朝食前、朝の柔らかい光の中で周辺の風景を写真に撮るため、シャワー小屋の裏の小高い丘にのぼる。丘の上にはオボーがあったので、しきたりに従い小石を三個拾って時計回りに回りながら投げ、旅の安全を祈る。丘を降りる時、足元に落ちていた形の良い動物の骨をひろった。すっかり風化して真っ白だが多分羊の首の骨のようだ。旅のお守りとして持ち帰ることにした。

 牛乳とヤギのヨーグルトで朝食を済ませたあと、バスで出かける。今日はカラコルムの町に行き、史跡や市場を回った後、午後は馬に乗って郊外の遊牧民のゲルに家庭訪問する。先日のトレッキングで味をしめたので、また馬に乗れるのが楽しみだ。

 昔の都カラコルムも今は人口8,000人の田舎町。かつて人口35万人の栄華の都の史跡の直ぐ隣に、木造バラックの集合体に過ぎない貧しい町並みが沈むように横たわるのは何か物悲しい感じだ。

 先ず有名なエルデニゾーの寺院群を訪ねる。ここは1586年、皇帝アバダイ・ハーンの時代に建立された。丁度日本では秀吉が関白になった頃である。各辺400メートルの正方形の外壁を城郭のように造り、壁の上には華麗な108の仏塔を等間隔に並べ、広大な壁囲いの中には仏舎利塔や寺院を建て、全盛期には60以上の建造物がひしめいていたそうだ。しかし、1937年頃の社会主義時代に仏教弾圧が行われ、多くの寺院が破壊されてしまった。今残っているのはチベット様式の仏舎利塔と中国様式の寺院など数棟に過ぎない。しかし現在残っている寺院の内部だけでも仏画や仏像などがびっしりと飾られていて見応えがある。なかでも釈迦の12歳頃の少年時代の像や、あつあつラブシーンの歓喜仏の像が印象に残った。

 モンゴルのほぼ中央に位置するカラコルムの地をモンゴル帝国の首都と定めたのは、チンギスハーンの後を継いだ皇帝オゴダイハーンで、それは日本の鎌倉時代の初期1220年の事であった。以来、東西文化交易の中心都市として栄え、マルコポーロの東方見聞禄でもその賑わいが紹介されている。全盛時には人口35万人を超える大都会だった。ところが国名を元と改めた第5代皇帝フビライハーンが元の都を大都(今の北京)に移してから、この地は次第に寂れて行き、全盛時代の建物は荒れるに任せて放置された。

 その後300年を経た1586年になって、アバダイハーンが先程のエルデニゾーを建てて再びこの地の復興を手掛けた訳だが、彼は13世紀から14世紀に建てられた古い宮殿などを解体し、リサイクルして再開発のために使ってしまった。そのため現在は栄華を極めたあのオゴダイハーン時代の宮殿などは何も残っていない。亀の形をした宮殿の台座石だけが野原にポツンと座っているだけなのだ。かくしてカラコルムは空になってしまった。

 かつてはソ連の発掘隊により、また今はドイツの調査隊に助けられて発掘作業が続けられている。私が訪れた日も作業はのんびりと進められていたが、あの調子だとあとウン10年は掛かりそうだった。また宮殿の亀の台座石の近くでは、夏草の上にふろしきを広げ、その上に古い貨幣や骨董品を並べた即席の土産物屋が10人ほど、派手な日傘を指して半円形に座りこんでいた。

 遺跡見学の次は町の市場へちょっと立ち寄ってみた。市場の入口では馬乳酒を量り売りしており、大きなミルク缶からちょうど一合程度汲みだしては売る。一杯20円だ。買った人はブリキのどんぶり風の入れ物から勢い良く(いっき飲み)している。昼間から酒を飲むということではなく、どうも昼飯として飲んでる風情であった。

 市場と言ってもコンテナーを並べてハモニカ長屋を造り、それを間口一間半くらいに適当に仕切ってお店にしているというもので、同じような物を売る小さな店がずらりと並んでいる。米屋、八百屋、雑貨屋と言うように纏めたほうが良さそうだが、夫々の店が個人で権利を取ってやっているので統合するのは無理のようだ。それにしても、よくも同じ物を売る店が見事に並んだものだと感心してしまう。目立つのは中国産の米、お茶、じゃがいも、たまねぎ、そしてモンゴルの岩塩だ。地球の不思議。アルタイ山脈をはさんで西のタクラマカン同様、東のモンゴルも大昔は海だったのだろうか。私はキャンプでのシャワー用にサンダルを買ったが、中国製でなぜかシカゴブルズのロゴの入った突っかけサンダルが60円という安さだった。先日訪れたウランバートルの市場に較べると、商品の種類も五分の一程度で、この辺りの生活の素朴さが想像できた。

 キャンプに戻って腹ごしらえをし、服装を乗馬用に整え、午後はいよいよ馬に乗って遊牧民のゲル訪問だ。バスで10分ほど走ると、我々の乗る馬たちが丘の上で待っていた。素直そうな顔をした茶色のメス馬を選び、どっこいしょとまたがる。過日練習した(口笛のチュウー)で馬さんはぱかぱかと快調に歩きはじめた。突然雷雲がむくむくと湧きあがり雷が鳴って今にも夕立が来そうな鉛色の空になってきた。ウマ君は雷は嫌いではないらしく平気で歩いてくれるが、馬上のシャワーだけは勘弁してもらいたい。目的地はタシトンドクさん一家が暮らしているゲルで5キロ先だが、何だか私の馬のスピードがだんだん遅くなり皆に抜かれはじめた。下手に励まして急に駆け出されたりしたらその結果が恐ろしいので、ここはウマ君の自主性に任すことにする。仲間の全員に追い抜かれて、最後尾で到着したら「ゆっくり乗馬を楽しんでおられましたね。相当経験がお有りでしょう」と或る人に誉められた。あの言葉は決して皮肉ではないと今でも信じている。

 後で悟った事だが、私が途中馬の背でふんぞり返ってタズナを少し引き気味に持っていたため、ウマ君を惑わしてしまったらしい。タズナを引くと馬は止まるのだが、私が中途半端にタズナを引いていたので、ウマ君は(止まるべきか、行くべきか)ハムレットのような心境だったのだと思う。気の毒なことをしてしまった。反省、タズナはもっとゆったりと持つべきであった。

 タシトンドクさんの一家は夫婦にこども3人。家畜は馬、牛、ひつじ、ヤギで約300頭とのこと。ゲルの中へ招き入れてくれたので皆でお邪魔する。ゲルの中にはソファーベッドが2台、食器棚、長持、洗面道具、鍋類がきちんと納まり、正面のいちばん奥に仏壇が祭られている。いたって簡素だが、ゲルの内壁にはかなり派手なタピストリーが掛けてあり寂しい感じはしない。

 奥さんが大皿山盛りのひとくちドーナツ風揚げパンとソフトチーズを出して下さり、ご主人は大きなヤカンに入った馬乳酒を皆のコップに次々に注いでくれて、手まねで「どうぞ、どうぞ」と勧める。二人とも物静かだが感じの良い人たちだ。子供たちは底抜けに明るくて元気いっぱい。客人が来たのが嬉しくて仕方ない様子で、全然人見知りしない。一番下の2歳くらいの坊やはおちんちん丸出しの素っ裸で飛び回っている。
タシトンドクさんの話:今年の1月2月はマイナス40度の大寒波が来てたくさんの家畜を失ったので、早くもう少し数を増やしたい。夏季は雨がいちばん降る季節だが、今年の夏は雨が少ないようで今心配している。もしこれ以上雨が来ないと草に恵まれないので、良い草を求めて移動する事も考えなければならない。

 話し込んでいるうち、急に大粒の霰がバラバラと落ちてきて皆びっくり。5分もするとそれが物凄いシャワーに変わった。恵みの雨だ。ご主人がうれしそうな顔をする。奥さんが何処かから板を探してきてゲルの入口上部に差込み、即製の軒板を出した。それでも雨はかなり入口から吹き込んでゲルの床を濡らし始めた。「にわか雨だからすぐに止みます」と夫婦とも決して慌てない。

 雨は入り口付近が床上浸水になる前に止んだ。ご主人は少し残念そうな顔をしている。お土産に持参した羊のもも肉をご主人に手渡して、そろそろお暇することにする。雷雨の後かなり気温は下がったらしいが、ご主人が何度となく勧めてくれた馬乳酒で温まった体に外気が心地よい。印象に残ったのは無駄のないゲルの中のセッテイングと、ゲルの屋根に乗っていた1メートル四方くらいの太陽熱発電板、そして何よりも忘れられないのは、赤いほっぺの子供たちの笑顔である。

 なお、ガイドのナラム君からゲルを訪問した時の礼儀作法を教わった。男は戸口を入ったら左側に座り、女性は右側に座ること。退出する時も女性はそのまま入口から出ればよいが、男性は時計回りにゲルの中をぐるりと回って退出するのが礼儀だそうだ。主人は常に入口から見ていちばん奥の正面に座る。われわれもこの作法に従って失礼の無いように行動した。

 その日の夕食はキャンプの支配人にお願いして特別に子羊を一匹捌いてもらい、遊牧民スタイルの(子羊の石焼き)晩餐会でおおいに盛り上がった。
握りこぶしくらいの小石を集めて其の上でがんがん火を焚き、カンカンに焼けた石を用意する。ミルク集荷用の高さ50センチくらいの大きな缶の中に焼けた小石を並べたら、その上に骨付きの羊の肉を適当に切って並べる。ポテトやにんじん、玉葱などの野菜も豪快に丸のまま肉と一緒に並べる。その上にまた石を置き肉を置きと同じ作業を繰り返して、缶のなかに食材と石を3層か4層に積み上げたら、フタをして1時間半くらい置くと「蒸し石焼き」の出来上がりである。缶の中で肉の余分なあぶらが搾り出されるのと、野菜類が肉の臭みを消してくれるのとで、羊肉は香ばしくて実に柔らかく焼けている。野菜もふっくらと焼けていて風味が逃げていない。モンゴルの岩塩を付けたり、ソイソースを付けて食べたが本当においしかった。ゲルからテーブルを運び出して野外に並べ、夕月を仰ぎながらまるでハモニカでも吹くような格好をして大きな肉の塊にかぶりついた、あの野性的な野外パーテイーは生涯忘れないだろう。
私にとってちょっとだけ残念だったのは、そこにチャモロソースつまりフェナデニが無かった事である。

 食後は夜も長いのでモンゴルの音楽を楽しもうということになり、地元のトリオグループを呼んでミニ野外コンサートを開くことになった。会場はキャンプ内のオルホン河に面した庭の一角。涼しい川風が頬に心地良い天然の上席。馬頭琴、十三弦琴、蛇味線、モンゴル琵琶の4種類の楽器を曲目に合わせて交互に使いながら歌う、女性ひとり男性ふたりのグループだが民族衣装が背景のオルホン川の水に映えて美しい。
演奏は川の瀬音と溶け合って響きを増し、歌声は川風に乗ってすすり泣く。やがて、男性の一人があのモンゴル独特の唱法(ホーミー)で唄い始めた。
ひとりの人間が低音と高音の二つの声を同時発声する摩訶不思議な唄い方だ。低音でメロデイーをうなり高音の方は伴奏の役目をする音を出す。舌、歯、のど、そして肋骨までも使って二つの共鳴音を出すのだが、小さい時から修行してもものになる迄に10年は掛かるらしい。またホーミー歌手は男性だけで女性はいない。理由はオッパイが有るために肋骨が共鳴しないとか、ホーミーの練習を続けると子供が出来なくなるからとか聞いたが定かではない。

 ホーミーの歌声に天まで共鳴したのか急に大粒の雨が落ちてきた。川岸のコンサートは会場を急遽ゲル食堂に移動して続けられた。日本の小学校の教科書にも出てくる「スーホーの白い馬」の昔話でも知られる馬頭琴だが、その音色は夏の草原が風でざわめく音だと言われる。弦と弓の糸は馬の毛で出来ている。日本の琴、三味線、琵琶のルーツは中央アジアだと言われているが、モンゴルの十三弦琴や蛇味線や琵琶なども皆日本の楽器類の祖先に違いない。モンゴル楽器の音色にじっと聞き入っていると言い知れぬなつかしさが沸いてくるのは、やはり日本の音のルーツがそこに有るからだろう。

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